「このくにのかたち」を考える(その24)

JAMP-時事通信社- オピニオン寄稿(2020年3月24日 掲載)
         「このくにのかたち」を考える(その24)




 


1.大嘗祭

 
令和元(2019)年11月14日、15日の「大嘗祭」に出席させていただきました。現代では皇位継承儀礼に重要な儀式として組み込まれていますが、その始まりは第40代天武天皇が673年に即位された時とされています(日本書紀)。
この即位儀礼が通例11月に行われているのは、毎年旧暦11月の冬至ごろに行われてきた宮中祭祀(さいし)の新嘗祭がその元とされているからだと思います。壬申(じんしん)の乱に勝利した天武天皇が即位される際に、新嘗祭を「大嘗祭」として行われたようです。
大嘗祭が行われる大嘗宮は、皇居東御苑内にあります。宮殿に集まったわれわれは、時間になるとバスに乗って薄暗闇の皇居内を移動します。皇居から見える丸の内、大手町あたりの高層ビルが、明々と輝いているのが印象的でした。
大嘗祭は14日の18時から21時まで、15日の0時から3時までの2回行われました。

2.大嘗祭の歌

 
バスで移動したわれわれは、大嘗宮の前に設けられた幕舎と呼ばれるテントの中で椅子に座って時を過ごします。明かりといえばひさしのたいまつだけですので、目の前の大嘗宮はぼんやりとしか見えません。天皇陛下がお成りになる時、お下りになる時はアナウンスがあり、起立しますが、そのお姿もよく分かりませんでした。
大嘗宮の中で何が行われているのかは見えないので分かりませんが、途中で合唱のような声が聞こえてきます。言葉の意味は聞いている時はよく分かりませんでしたが、歌舞の解説を読むと、奏された古風(いにしえぶり)と呼ばれる歌は、三つとも奈良に関係する歌でした。それ以外の歌も奏されていましたが、即位の年に作られた新しい歌でした。
最初に奏された歌は、第15代応神天皇が吉野に行幸された折に地元の国栖の民が歌ったとされるものです。(日本書紀)
「橿(かし)の生(ふ)に 横臼(よくす)を作(つく)り 横臼に 醸(か)める大御酒(おほみき) 甘(うま)らに 聞(き)こし以(も)ち飲(を)せ まろが父(ふ)」と歌われました。あとの二つは神武天皇と天武天皇が行幸された時の歌でした。


3.天武天皇

 
14日の夜に悠紀殿(ゆきでん)で行われる儀式と、15日の早朝に主基殿(すきでん)で行われる儀式の間は、宮殿に戻って軽い食事がふるまわれます。また、両儀式が終わった後には、同じ宮殿でお酒もふるまわれます。
このような儀式は、応仁の乱(1467~78年)から戦国時代を経て、江戸時代の初めの1687年まで221年間断絶したものの、天武天皇の時に始められ、同じ形で今日まで続いています。
天武天皇は壬申の乱に勝利したあと、飛鳥浄御原宮(現奈良県明日香村)で即位されたのですが、その時代は韓半島の白村江で日本が唐・新羅の連合軍に大敗し、国力を蓄え、国を守る必要があった時代だったと思われます。唐の勢力に対抗するためにも、国の力を結集させる必要があり、それまで五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する新嘗祭を、天武天皇が即位儀礼に組み込んだと言われています。

4.日本書紀と藤原不比等
 
 大嘗祭が天武天皇即位の際に初めて行われたこと、大嘗祭で奏される三つの奈良にゆかりのある歌が、応神天皇、神武天皇、天武天皇が行幸された時の歌であることは、すべて日本書紀に記されていることです。この日本書紀は今年からちょうど1300年前の720年に完成しています。
 日本書紀が中国の人も読める漢文で書かれている一方で、同じ時代・同じテーマについて書かれた古事記(712年完成)は日本人しか読めない文章で書かれています。このことと、即位儀礼が、唐風の高御座などを用いて内外に即位を宣明する即位礼と、アニミズム的な感じのする大嘗祭とを同時に行うことには、うちとそとの両方を意識しているという共通点があると思われます。
 日本書紀が完成した720年には、当時の太政官家で今に続く藤原家の初代ともいうべき藤原不比等が亡くなっています。天皇家の始祖アマテラスを祭る伊勢神宮と、藤原家の氏神である春日大社は、「君と臣」に代表される平安時代の「二神約諾」といわれた形を今に伝える日本の基本的枠組みになっていると思います。