奈良に春を呼ぶ行事、東大寺の「修二会(しゅにえ)」。三月一日から十四日まで境内の二月堂で厳修(ごんしゅう)される。そのクライマックスが「お水取り」。このため行事全体もそう呼ばれる。
修二会は、心身の穢(けが)れを払った僧侶(練行衆(れんぎょうしゅう))十一人が、本尊の十一面観音像の前で「五体投地(ごたいとうち)」などの行(ぎょう)を行い、国や社会、人々にかわって罪過(ざいか)を懺悔(さんげ)し、天下泰安、五穀成就、万民快楽(ばんみんけらく)を祈願する法会(ほうえ)である。東大寺の実忠和尚(じっちゅうかしょう)が天平勝宝四年(七五二)に創始したとされる。
「お水取り」は、十二日の深夜から十三日の未明にかけて行われる。暗闇の中、練行衆らが二月堂の南の石段を降り、二月堂下にある閼伽井屋の中の井戸(若狭井)からお香水を汲み上げ、本尊にお供えする。この若狭井は、若狭国(わかさのくに)(福井県)の小浜と水脈がつながっているという。実は、この関係について奈良の昔話はこう伝えている。
昔、実忠和尚が、修二会の行法中(ぎょうぼうちゅう)、「神名帳(じんみょうちょう)」に書かれた全国の一万七千余の神様の名を読み上げ、参集(さんしゅう)を求めた。神々はすぐに集まってこられたが、若狭国の遠敷明神だけが川で魚釣りをしていて遅刻された。
それを他の神が口々に咎(とが)めた。そこで遠敷明神は「これは申し訳ない。お詫びとして、ご本尊にお供えする霊水を若狭からお送りしよう」といい、二月堂下の大岩の前で祈られた。すると、大岩が動いて二つに割れ、黒と白の鵜が飛び立ち、続いて霊水が湧き出た。和尚はこれをお供えの水とされた。これが今も二月堂下にある若狭井戸である。
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この「お水取り」は今年で千二百六十一回を迎える。これまで、時代がどう変わろうと、たとえ二月堂火災の時でさえ、一度の中断もなく平成の今日まで連綿と受け継がれてきた。まさに驚き、奇跡ともいえよう。
「お水取り」が終わった翌十五日、行法で用いた達陀帽(だったんぼう)を、幼児の頭にのせてもらう習慣がある。無病息災を願う親子連れで早朝から賑わう。
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