第2回奈良県教育懇談会討議の概要

◇日時   平成12年11月7日 13:30〜16:00

◇場所   奈良市登大路町「奈良文化会館」(集会室A・B)

◇発言のポイント

 I 意見交換(続き)  II 討議の内容

1 家庭教育について

(提言)
(意見)
2 幼児教育について

(提言)
 豊かさの中の困難さという新しい状況の中で、そこへの一方的な嘆きでなく、何がつくれるか考えてみたい。

 観点1
 次のような子供の現在の発達状況をどうとらえるか。  
 観点2
 大人が子供とほんとうの意味で向き合っていない状況がある。大人が子供とのトラブルが嫌で、そのごたごたを引き受けない状況が家庭にも園にもある。また大人の諾否が明確でない。いい、いけないという意思表示を避けてはいけない。
 観点3
 親が自立するために必要なことを話し合う必要がある。自主性尊重という言葉に惑わされないこと。母親の不安定性、孤独、あせりをどうフォローするか。子離れができないなか、親が自立するために必要なことを話し合う必要がある。
 観点4
 保育所、幼稚園に期待される子育て支援、ほんとうにすぐれた保育内容や文化を子供にきちんと与えていくためにはどうしていくか考えたい。
 観点5
 保幼と小学校に横たわる溝の部分をもう少し大人の側がきちんと考える。保幼小の連携というのが奈良県でもひとつ大きな課題になってくる。
 観点6
 行政、企業、地域などに求められる子育て支援策として必要なことは何か。子供の預けやすさと働きやすさという点で意見対立があるが、何らかの最大公約数の合意を。
 観点7
 ほんとうに子供を大事にするとはどうすることなのか。大人と多少トラブルを起こしても子供につけなければならない力は何か。子供が生きていくために、その子が最善の利益を得るためにしなければならないことは何かを考えていきたい。

 III その他
   インターネットによる懇談会の情報提供の方法を改善する。


◇次回懇談会  平成13年2月6日(火)



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◇議事概要

I 意見交換(続き)

(子供の教育が先か親の教育が先か。家庭・学校・地域の連携が重要。)

【委員】  子供が最初に教育を受けるのはやはり自分の親からであると思います。私はしつけも教育だと考えていますが、その教育を施すのはそれぞれの親である。でも、親にはいろいろな人がいて、ほんとうにしっかりとした愛情豊かな親もいれば、とんでもない親もいます。例えば、ほったらかしにしたり、虐待したり、自分が子供なのに親になったり、小さな子供を連れてまで夜中にカラオケに来ている親も見かけます。こういう親は自分の子供にしっかりした教育を絶対できないと思います。家で父親が母親に暴力を振るうのを見て育った子供は成長すると、男の子なら父親のように妻に暴力を振るい、女の子で夫から暴力を受けたとしても母親のように耐えてしまうという傾向にあると聞きました。若者の犯罪者でも、精神的な不安定が原因であったり、小さい子供の関係する性犯罪を犯す人は、自分が小さいころに幼児虐待を受けた人が多いという統計もあると聞いています。そのようなことを考えますと、小さいころの親の影響というのはその人の一生に大きくかかわってくると言えます。ですから、子供の教育を考えるのはもちろんですが、それよりもまず、これから親になる人の教育を考えなくてはならないかと思います。卵が先か鶏が先かというようなことを感じています。

 ところで、大人を教育するのは非常に難しいと思います。これからの社会は共稼ぎが増え、親が仮に勉強したいと思っても、なかなかそういう機会・時間がないと思います。家庭で足りない教育をカバーできるのは、学校や地域ではないかと思います。家庭と学校と地域の3つがそれぞれの役割を担ってこそ、しっかりした教育を子供にしてやれると思います。

 私が考えます教育というのは、その人に生きていく力を身につけさせることだと思います。その人がどれだけ豊かに学んで、自分で考え、創造することができるか。社会にどれだけ貢献し、社会的な責任を果たすことができるか、そして、自分の生き方をみずからどのように選択できるかというような力をつけていくことだと思います。

 子供は、例えば友達の大切さとか、お年寄りをいたわる優しい心とか、目標を達成したときの充実感、また、自分の存在を認めてもらうという安心感、また反対に失敗したときの挫折感など、いろいろな経験を通して一人前の大人になっていくと思うのです。子供を正しい方向に導いてやれるのは学校であり、地域であると思います。家庭と学校と地域の3つがうまく役割を担っていけば、それぞれの教育力をより向上させることができると思います。

 ある学校では、その地域の方を授業の講師として迎えており、子供達は先生に言えなかったようなことを、そういった近所のおばさんである講師の人には打ち明けたりするし、学校の先生とは違った感じで親しみを覚えるといった話を聞いております。この講師の先生というのは、芸術面やスポーツなどで、その地域で活躍されている方なんです。これらの地域の講師は、精いっぱいの努力をして子供達に接していました。このような地域と学校が一体になった教育が理想的だと思います。

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(乳幼児には父親の厳しさ母親の優しさが必要。教師の意識改革。日本を誇れる教育を。)

【委員】  最近「自己チュー」という言葉がよく使われます。これは子供ではなく、親の世界、社会の中で非常に目立っているように思われます。世の中には、やりたい放題、やったもの勝ち、そのようなことがあふれています。このような状態で、子供に、「何々はよくない。」、「何々はこうすべきだ。」、「他人のことを考えなさい。」などと言っても、大人がこういう生活態度を取っている今の環境で、そのような教育は無理だと思います。これは世の中が変わらなければ駄目だと思います。親に対する教育は教育が終わったという感じがあるわけですが、社会教育の分野においては教育は一生の問題ということです。現在、父親も一緒に乳幼児の世話をすることが増えていますが、ちょっとおかしいのではないかと思います。私が古いのかもしれませんが、人間に限らず、すべての動物について言えると思うのですが、父親の厳しさと母親の温かみ・優しさが、子供に、特に乳幼児には絶対必要だと思います。

 そういう意味で、あまり小さいころから子供を幼稚園や保育所に入れ、教育だ教育だと過度になるのはどうかと思います。幼稚園などに依存していては、親としての細やかな愛情が子供に伝わりにくいと思います。また、最近は個性を生かすということで、いろいろな施策がなされていますが、現状の学校を考えると、どうしても先生1人に対して多人数であり、その子の個性を伸ばすことは困難です。多様化に対応して個性を伸ばすということを行えば、非常に多くの指導者ないしは先生が要るような気がします。保育所や幼稚園に子供を預けて働いている母親が、どうも遊ぶため、服を買うため、旅行に行くためにお金が欲しいから働いているのではないかと思います。どうしてもその稼ぎがないと生活していけないという状況ではないように思います。これは子育てを国、学校、行政に任せてしまうということで、私は非常に心配しているところです。なかには、どうしても働かないとやっていかれない、子供を預けなければどうしようもないという人がいらっしゃると思います。このような人には、援助は必要ですが、単に子供を預けるというのは短絡的で、もっと違う形の助成、母親から子供を取り上げないものが必要ではないかと思います。

 次に、先生について話します。小学生の高学年や中学生ぐらいになりますと、子供は大体この先生はどのような考え方をしているのか分かってきます。非常に熱心な先生がおられるのも確かですが、中にはどうかという先生も確かにいます。そうなると、口先だけで、「何々しなさい。」と言っても、「はい、そうですか。」と子供は従いません。その意味で、学校が変わらなければというよりも、むしろ先生が変わらなければならないと思います。最近、地域で子供の話をしても、「何故、よその子供の面倒まで見なければならないのか。よその子供の面倒を見ないことでとやかく言われる筋合いはありません。」というような人が多くなりました。そして、その中に学校の先生もおりまして、私は、非常に大きなショックを受けたのです。家に帰ってまでよその子供の面倒を見るのは大変だと思われたのかもわかりませんが、このような先生より、「ちゃんと教えなければ、明日は、自分の方が来なくても良いと言われかねない。」という意識でがんばる塾の先生の方が良いのではと思えてきます。学校の先生は、もう少し一般社会的な立場をわきまえていただきたい。自分の仕事ということをもう少し身近に考えてもらいたい。適切な行動がとれない先生に子供を預けていいのか、日本の将来を託していいのかと思います。

 それから、日本の国民として日本を誇りに思っていないのではないかと思います。海外で生活した者は、日本の国というものを考えるとよく言われます。我々の家族を、町や村を、また県を誇れないという教育は問題があると思います。それが国を誇れないことにつながっています。国内だけで生活している人は、国なんか関係ないという人が多いのでしょうか。先日、ある老人が話していましたが、「日本は、義務教育がゆがんだ形で導入され、今や、家庭が、社会がばらばらになっている。アメリカは同じ民主主義と言っても、国というものに対しての考え方をきっちりしているから、まだ、しっかりしている。」と。そういう意味で、やはり地域に根ざした、地域を大事にする教育が重要ではないかと思います。司馬遼太郎の「街道をゆく」という本があります。彼は、「道に国宝というのがございましたら、私は當麻町の竹内街道を一番に推したい」というように言っています。當麻町は、彼が青少年期の頃に育った所で、格別の思い入れがあるのでしょう。子供は、親の背中を見て育つし、環境で育つということをしっかりと念頭に置かなければなりません。

 奈良県は、奈良県独特、奈良県独自のものが豊富にあり、教育に生かす材料が十二分にあります。家族を、町や村を、そして奈良県、日本を誇りにおもう教育をするべきだと思います。

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(子育て、子供の教育に父親の参加が必要。それを促すために必要なことは。)

【委員】  私がお話ししたいのは、子育て、子供の教育に母親だけが携わるというのはどうか、父親の存在が家庭教育、学校教育にも必要であるということです。

 私は、幼稚園の入園式と中学校の入学式を同じ春に行った経験があります。幼稚園の入園式は、父親・母親が一緒で、夫婦で出席され、ビデオ・カメラを持ち、家族みんなで一緒に幼稚園に入るぞといった感じを受けました。これにひきかえ、中学校の入学式には、父親の姿はほんとうにまばらでした。参観日やPTAも、中学校では母親ばかりです。たまに父親がきていると、「何か変わった人がいる」と見られ、それを感じてか余計父親は来ないようになります。今、17歳という年齢が問題になっていますけれども、思春期のとっても難しい時期に、母親だけの視点で子育てをすることには無理がある。父親の視点が必要であるということではないでしょうか。ただし、思春期になったからと急に父親がしゃしゃり出てきても、子供は受け付けません。幼稚園のときから小学校、中学校・高校と子供の教育に参加していなければ何にもなりません。

 父親の参加が少ない原因として、日本の企業人が非常に忙しいということがあります。父親は、学校行事で半日の休みさえ取れない、取りたいと言える企業風土がないと思います。同じように働いていても、母親の方は「だから女は困るんだ」とか言われながらでも休みを取れると思います。奈良の産業界だけでも、学校行事で父親が休みを簡単に取れる風土を作っていただきたいと思います。

 次に学校のPTA活動、学校行事の中で、父親が参加しやすいものが、学年が上がるにつれてなくなっていくと思います。幼稚園では、芋掘り、遠足、園内清掃にと父親の出番を促すものが結構あり、実際、多くの父親が参加しています。当然、子供もそれを見ています。小学校でもまだ、日曜参観とかで父親の参加もありますが、中学校では、文化祭も生徒が企画、実施することが多く、親はほとんど出る幕がないといった感じです。小学校で、お父さんの出番をつくろうということで人形劇やゲームなどを企画したら、父親の参加も結構ありました。このような企画をもっと考えてほしいです。PTAの会長、副会長は自営業の父親がやっています。自営業なら、時間が自由になるからということでしょうが、一般企業に勤めている者は、子供の成長を見られないという、ある意味とても損をしていると思います。

 前に、教育長が言われた教育研究所の家庭教育部で企業の内部研修に講師を派遣なさるというようなことは、ぜひやっていただいて、子育てのおもしろさみたいなことを伝えていただきたい。伊藤公雄さんという大阪大学の教授で、子育てをよくなさった方なんですが、その方が、男が子育てにかかわるというふうな話をされて、たくさんのお父さんの共感を得たという話を聞きました。理論的にお父さんも子育てをやりなさいというのではなく、子育てが、父親にとってもプラスですよ、楽しいことですよというふうな形で経験者に話をしていただけたらいいのではないかなと思います。

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(将来を見ながらの教育を。ほんとうに子供を大事にする教育とは。)

【委員】  私は、今日まで奈良県の戦後教育そのものを受け、奈良県の教育をいろんな形で学んで、それに一生懸命取り組んできましたけれども、今振り返って考えると、それでよかったのかと考えています。今、子供達の学級崩壊や不登校や非行の問題が、何故なかなか解決できないのか、真剣に考えなければならないと思います。一番大きな問題は、今までの教育は一生懸命にしてきたかもしれないが、その場その場での努力であり、もう少し先の展望を見ながら教育する必要があったのではないかと思います。20年、30年先の子供達の姿を見ながら、そのときに教育を創造していけば、今のようになっていなかったのではないかという思いを非常に強くしています。

 今、教育の危機だというふうに言われています。私は、親も教師も弱過ぎるのではないかと思うのです。学校で何か新しいことをやってみようとしたときに、教育について、いろんな考え方の人がおり、立場の人がいるわけで、すぐに、新しいことにいろいろ言う人が表れる。それで、新しい試みをやめてしまう。そういうことがよくあると思います。こんなことで本当に子供の教育ができるのでしょうか。例えば、子供にナイフを持たせて果物の皮をむかせる。私は普通のこと、何もおかしなことではないと思うのですが、これについても立場の違う人がいるわけで、親も教師も思い切ってやれない。そういう状況が、教育を停滞させているのではないかと思います。

 これから先の奈良県の教育を考えたときに、この辺を思い切って考えてほしいのです。教師も親も子供を大事にするということはどういうことなのか、しっかり考えてみる時期ではないかと思います。今、まさに、中教審も教育改革もそのことを指摘されていると思います。何とか大人が強くなってほしい。子供達に責任をかぶせるのではなく、大人がもっと子供を大事にしてほしい。そして、子供を大事にするということはどういうことかということを考えてほしい。子供が成長期につけなければならない力をつけてやっていない。

 これからは、成績などの見える学力だけではなく、ほんとうに大事な隠れた学力、いわゆる判断力や表現力などの能力をつけるために何とか教育改革をしていただきたいと思います。

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(地域のリーダーが子供に話をしよう。日本が世界に誇れる歴史の教育を!)

【委員】  3点お話ししたいと思います。

 1点目は、最近、経済界も教育問題に関心を持ってきたということです。東京では、今年から経済界のメンバーが都内の学校で教壇に立ち子供と話すことを始めました。社会の指導者たちが年に何回か子供達に直接話しかけたり、話し合ったりとするということは、学校とか生徒にとっても意義があることですが、指導者たちにとっても意義のあることだと考えています。奈良県でも、教育界以外の人材をもっと活用して、地域の人がもっと学校に行く必要があると思います。例えば、ロータリークラブとかライオンズクラブの人、宗教界の方など、奈良県には立派な人がたくさんいらっしゃいますから、これらの人に子供に話してもらったらいいだろうと思います。

 頭の体操で有名な、心理学者・教育学者の多湖輝氏と交友があります。彼は、70才になり、現役を引退されたのですが、その後、何とか日本をよくしなければいけないという気持ちになり、心ある人に呼びかけ、研究会を作り、活動を始めました。最近は、石原都知事のブレーンとして教育問題の座長をしています。こういうふうにいろんな方たちが日本をよくしなければということで動き始めています。奈良県も、こういった世の中の流れをうまく教育改革に利用されてはと思います。今朝の新聞で、文部省が「親教育」に取り組むと出ていましたが、これも一つの流れかと思います。

 2つ目は、今、国立大学が変わろうとしていることです。これは実に頼もしい限りで、いろんな試みをやろうとしています。大学で学ぶ人、研究する人に対して選択の幅を広げる動きが進みつつあります。私は、昨年、アメリカのチャータースクールとか大学とかを視察してきました。アメリカでも、そういう意味で、新しい教育のうねりが起こっています。全部一緒に変えることはできないと思いますが、チャータースクールのようなものとか、フリースクールのようなものとかを、県内で2つ、3つ実験校的なものができれば良いと思います。そこで成功したら、それを、別のところでまた使えるわけです。教育長が前回言われましたが、画一的でなくてもいいということですから、自由度がある、選択の幅のあることを少し工夫していったらいいのではないかと思います。ところでパソコンは、1年で値段が4割下がっています。3年前のパソコンはほとんどただです。だから、フリースクールとかチャータースクールを作り、パソコンとかが必要になった時、いろんなところから集めますと、おそらく生徒数人に1台ぐらいはただで集まると思います。そういうこともできるのではないかと思います。

 3点目は、正しい日本の国という歴史教育がどうも欠けているのではないかと思います。日本人としての誇りは何だろうか、国際的に生きていく上でどうなのかと思っています。そういう教育がどうも欠けている。学生に歴史の本をとにかく読むようにさせたところ、おもしろかったという反響が返ってきました。奈良県は、歴史では、世界に誇れる県だと思っています。奈良のこと、日本の国づくりのことをぜひしっかり教えていただきたいと思います。私は外国人と接触する仕事がかなり長いので、外国の人が来たら奈良に連れてきて、東大寺・法隆寺とかに連れて行きます。彼らも日本の歴史の素晴らしさをわかってくれます。日本の国というのはすばらしいと実感します。だけど、それを子供達に教えていないというのは問題ではないかと思います。ぜひ歴史教育を、日本がいかに誇れるかという歴史教育をやっていただきたいと思います。

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(スピード感・緊張感のある学校。先生と生徒の和。人間としてのエリートを目指せ。)

【委員】  私が、学校・先生・児童生徒たちに期待・希望することが3つあります。

 1つは、スピード感のある学校、生徒、教師であってほしいということです。登校する子供にスピード感がある。あるいは、廊下を行き交う先生にスピード感がある。教室や授業に向かう先生に生き生きとしたスピード感がある。授業でも子供と先生とがお互いに質問をし合う緊張感がある、そんな学校であればと思うのです。

 先生同士がお互いに鍛え合うことも、もっとあっていいんじゃないかと思います。私が昔、入学試験の問題を作ったり、先輩と一緒に研究をしていたときなどは、先輩から、「こんなことも知らないのか」と非常に厳しくしつけられ、また、何くそというような気持ちになって頑張ったことがあります。今の学校現場にはそういう先生と先生の間の緊張感、スピード感がないのではと感じています。

 2つ目は、先生と生徒の和熟といいますか、和して熟するということであります。教える者と教わる者との間に緊張感があるけれども、先生方に近づいていこうという意識が欠けてしまっていると思います。先ほど、学校が変わらなければいけない、あるいは、先生が変わらなければいけないという意見がありました。私も大賛成であります。私の小さな村で、自動販売機を荒らす中学生が問題となったことがあります。子供達の大半は誰か知っていたのに、学校の先生はまったく知らなかったという状態でした。小さい学校ですが、子供と先生との距離がどうしてこんなに遠いのだろうかと思ったわけです。それは教室だけの授業、部活動・クラブ活動だけの子供との接触、直接子供から動きを感じることの欠如などによるのではないかと思います。最近は、あまり子供達が先生の家を訪ねたりしないらしいのです。昔はよく先生の家に子供達が訪ねてゆきました。先生の子供へのタッチの浅さというのを感じます。また、子供達の価値観、考え方も変わってきているのかもしれません。非常に寂しく思います。

 3つ目は、子供には、人間としての、人としてのエリートになってほしいと思います。お互いに競争することが原則ではないかと。勉強にしろ、スポーツにしろ、お互いに競い合う、その中からほんとうにお互いが下手から上手になっていくわけです。そして、その上手になった者を尊敬しあうということが大事だろうと思います。その中でも特にルールを大事にしてほしいと強く思います。それは、ルールの気持ちを、心を大事にしてほしいということです。ルールを知ってルールに従うのではなく、ルールがなくても人としてのルールが築けるような人間になってほしい、そういうことを言いたいわけです。

 以上、スピード感のある生徒・学校、先生と生徒に和熟の見られる学校、それから、人としてのエリートになってほしいということを言ったわけでありますが、学校教育に行政があまり手を貸してはいけない、もっと先生方自身が立ち上がらなければいけない、そんな感じを受けております。NHKで「ようこそ先輩」という講座をやっていますが、また、先ほどもお話がありましたが、社会の人材を活用するということも良いですが、直接は学校の先生がやるべきだろうと、やはり先生方自身がと、そんな感じがしています。学校の先生が何もやらなくなったら大変だろうと思います。

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(子育て問題は少子化問題。生き方を教えることが教育。)

【委員】  子供は、親を、社会を映す鏡だと思います。青少年問題、少年犯罪、これは我々の今住んでいる社会を映しているのだと謙虚に受け止めなければならないと思います。親が子供を育てるというのは当たり前ですが、気がつけば子供に親が育てられていた。そういうこともあるというのが私が得た教訓です。

 子供を育てる上で3つの角度があると思います。社会が子供に与える役割。親が子供に与える役割。そして、教師すなわち学校が子供に与える役割です。この役割がばらばらでは、ほんとうに健全な教育ができません。この3つの視点を1つにする、それが重要だと思います。これからの奈良県に必要な取り組みだと思います。

 私の周りには、子育てに困惑している弱いお母さんたちがいます。しかし、弱いと思うから弱いんですよと少し方向を変えてあげる。そうして、弱くもなく強くもない、温かいお母さんとして子育てをしましょうという視点に変えてあげるようにしています。それに、子育ては、間違ってはいけないとか、正しいことをしなければならないという強い思いはどうかと思います。特に母親が間違った子育てをしているのではないかと不安な思いを抱かせる社会もどうかと思います。

 家族の一員として子供にどう接したら良いのかということをもちろん親は真剣に考えなければなりません。しかし、行政は、現実と、それから実態というものを見逃したらだめだと思います。子育てに困っている母親がいます。ほんとうに困っているのですが、子育てだけが問題ではないのです。それは、少子化問題でもあるわけです。行政としては、少子化問題はすでに大きな課題として認識されていると思いますが、なぜ少子化になったのかというところから考えていくべきだと思います。

 前回の教育長の話の中で、今までの社会の変動の中で画一化に歯止めがきている。中央集権の動きに歯どめがきているという話がありました。しかし現実として、今、情報化や国際化の中で子供をどう育てていいのかわからない母親、先ほどの話にもあった何か弱くなった先生と親、この辺に何か現在の教育問題の原因があるのではないかと思います。

 そして、その中で、女性はどう生きてきたのか。いつも、社会現象の中で老人と子供が一番被害を受けます。でも、その弱者と日常の生活で直接関わっているのは母親であり、女性であります。そこを抜きに教育は語ってはいけないと思います。現実と実態をしっかり把握し、そして検討を重ねて取り組みを行い、それが間違いであれ、正しいことであれ、その中から出てきたものをもう一度、現実と実態として把握し、そしてまた、検討を重ねて取り組みを行うという認識が生まれる、これが教育ではないかと思います。

 私たちの取り組みの中では3つの要点があります。思いやりの教育ではなくて、思いやる教育。それから労働の教育。働くことによって得る知識と知恵。そして、聞き入れる、感じる教育。この3つをこれからの奈良県の教育に取り組んでいただきたい。教育というのはゼロ歳から大人になるまでの間に礼儀をもって、思いやりやら協調性、そして善悪の判断、そして五感を養って、みんなで一緒に幸せになりましょうというふうな生き方を教えるのが教育ではないかと思います。

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(広く県民に趣旨が普及・浸透する施策が必要。教育界挙げての長期計画を。)

【委員】  教育改革に関しての意見ということで、2点ございます。

 なぜ、今、自ら学び、自ら考える力の育成が教育改革の要になっているのか、教育の本質面から、生涯教育の面から、とりわけ激動する21世紀を生きる上から、あるいは人間の創造性開発の面から、さらには、さまざまな不適応問題への抜本的対応など、あらゆる面から深く追求し、解説して、教師だけでなく、広く県民にも趣旨が普及・浸透する施策が必要である。理解や認識が深まるほど改革のうねりは大きくなると思います。

 2点目は、教育界を挙げて長期計画を立て、毎年の重点施策を検討し、評価し、実効性を確認して、次々と高い次元の実践に進めるよう施策を進めるべきであると思います。学校に自ら学び、自ら考える力を持つ子供が育つことにより、教育改革は達成されたことになります。そのためには学校が変わらなければならない。学校が変わるためには、校長、教員一人一人が意識改革に取り組み、新しい理念に立つ教育論と教育方法の実践的な研究を地道に積み上げていくことが必要であります。学校はもちろんですが、県・市町村の教育委員会の指導・管理、機能の覚醒もまた図るべきであると考えます。

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II 討議

 

【委員】基調提言(テーマ:家庭教育について)

 

〔レジメ〕


乳幼児期の家庭教育

1 乳幼児期における親の役割
(1)子供を守る。(保護)
  ・子供の衣食住など生存に必要な環境を整える。
  ・子供の生理的・心理的欲求を充足させる。
  ・親子の信頼・愛情関係を確立する。
(2)子供のしつけをする。(社会化)
(3)子供の行動の模範になる。(モデリング)

2 家庭における乳幼児教育の目標
(1)日常生活を支える技能・習慣を形成する。
  基本的生活習慣ともいい、狭義のしつけに相当する。しつけは親の義務である。
  身辺自立は、心の自立や自己効力感の基礎になるという点で重要である。
(2)社会生活の基礎となる技能・習慣を育てる。
  社会的生活習慣ともいい、集団参加、ルールの遵守、協調性や責任感、思いやりなど
  社会性の基礎となる。家庭とともに幼稚園・保育所の集団生活で育てられる。

3 日常生活を支える技能・習慣の内容
(1)食事:箸やスプーンで、こぼさずに、行儀よく食べることができる。
(2)排便:オムツがとれ、小便と大便が親の援助なしにできる。
(3)着脱衣:靴、靴下、パンツ、シャツ、ズボン、上着など、衣服の脱着ができる。
(4)睡眠:決めた時間に起床、就寝できる。睡眠、食事、遊びなど生活のリズムが整う。
(5)清潔:手洗い、洗顔、うがい、歯磨き、鼻をかむ、髪をとかす、身体を洗うなど。

 ・これらは、しつけの内容として定着しているものである。
 ・いずれも具体的で行動として記述されるので、教育目標を設定しやすい。

4 社会生活の基礎となる技能・習慣の内容
(1)日常の挨拶:名前を呼ぶと返事をする。「おはよう」「さようなら」「おやすみ」「いただきます」「ごちそうさま」「ありがとう」などが言える。
(2)自己表現:自分の要求や感情を表す言葉が言える。要求−「ほしい」「かして」「ちょうだい」など。感情−「うれしい」「たのしい」「きれい」など。
(3)家事手伝い:食前の配膳、食後の片づけなどの手伝いができる。
(4)あと片づけ:遊んだ玩具を片づけるなど、あと片づけやあと始末ができる。
(5)ルールの遵守:家庭内で簡単な約束事や決まりを作って守らせる。
(6)自己統制:思い通りにならなくても言い聞かせれば我慢できる(わがままを言わない、暴れない、物を投げない、人をたたかないなど)。

 ・定着している内容はない。『社会性の基礎』という観点から検討を要する。
 ・『心の教育』の内容を参考にしてもよいが、抽象的であり行動化しにくい。
 

 

(提言の内容)

 家庭教育を、乳幼児の家庭での教育としてとらえ説明します。

 1 乳幼児期における親の役割

 親の役割の第1は保護、子供を守ることである。その中の2番目は、例えばおむつをかえること、授乳することを通して子供の欲求を満たしてやる、あるいは、スキンシップを与えることです。最近はこれが足りないと思います。スキンシップをする、一緒に遊ぶ、話しかけることで欲求を満たしてあげることです。それが親子の信頼あるいは愛情関係のもとになっています。
 親の役割の第2は、子供をしつけることです。大体1歳半ごろからしつけが始まります。英語の「しつけ」に当たる単語には、しつけとか訓練のほかに自制心という意味もあります。日本語では、し続けること、これが短くなって「しつけ」になったとか、あるいは、着物のしつけが語源であるとか言われてます。しつけには、どうしても罰とか禁止とか強制が伴います。それで、子供は恐怖感とか不安感を持つわけですが、保護の時期に親子の愛情関係、信頼関係が培われればあまり問題になりません。
 親の役割の第3はモデリングです。親が子供の模範になるということです。親が望ましい行動や模範を示さずにしつけばっかり厳しくしても、うまくいかないのです。

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  2 家庭における乳幼児教育の目標

 1の(2)のしつけに当たる部分を、乳幼児教育の目標ととらえて、次の2つに分けてあります。1つめは、日常生活を支える技能・習慣を形成することです。いわゆる基本的生活習慣です。これは親の義務、責任です。このしつけは就学までにできることが望ましい。身の回りのことが自分でできるということは、心の自立にもつながり、自信を持って一人でできるんだという力の基礎になります。
 2つ目は、社会生活の基礎となる技能・習慣を育てることです。これは社会的生活習慣とも言います。ルールの遵守、協調性や責任感、思いやりを育てることです。家庭はとともに、幼稚園や保育所での集団生活の中で育てられるものが多くあります。

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  3 日常生活を支える技能・習慣の内容

 これは5つに分けることができ、いわゆるしつけの内容です。
 食事について、先割りスプーンが使われている学校がありますが、家庭ではしの持ち方を覚えさせたのですから、学校でもはしを使っていただきたい。はしで食べるというのは日本の伝統、文化です。それを学校教育で壊すというような感じもします。次は排便です。おむつがとれないという相談が一番多く、年齢差も大きいようです。次に着脱衣、服を着たり脱いだりする、これ着脱と言うんですけれども、ほんとうは脱着で、脱ぐほうが早くできます。次は睡眠、これは生活リズムと言ったのほうがいいかもしれません。現在は、親のサイクルに合わせて子供を育てているような感じもあります。それから清潔、これはしつけの中でも難しいほうですが、やはりきっちりしつけておかないといけないと思います。

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  4 社会生活の基礎となる技能・習慣の内容

 これについてはいろいろ意見が分かれると思いますが、何が大事か、家庭でできることは何かというようなことから、次の6つを取り上げました。
 1つ目は挨拶です。挨拶をするということは人間関係の始まりです。次に自己表現です。自分の要求や感情をあらわす、そういう言葉を言うことですです。これも一つに自己主張であり、自主性のもとになるものです。家事の手伝は大きくなって思いやりとか他人を手伝うとかボランティアとか奉仕とかにつながります。それから、あと片づけは責任感のもとになり、ルールを守ることはけじめをつけるとか、あるいは善悪のもとになります。最後に、自己統制です。協調性、共感性とともに、人とうまくやっていくには自分を抑えなければいけない。今の子供はこれができないです。とくに、最低限自分を抑える力、衝動的に行動しない自制心を小さいころからしつけておくことが大事です。

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以上が家庭教育についての説明ですが、私が感じたことを少し話します。

 家庭の教育力といわれます。家庭でどういうことをやったらいいのか、その教育力というのは何だろうか、地域の教育力とはどういうものかということを、もっと具体的に考えないといけないと思います。

 過保護・過干渉がいけないいけないとよく言いますが、どうも正しく使われていない。親自身が自分がどういうことをすれば過保護なのか過干渉なのか分かっていません。分かっていないのに過保護はいけない、過干渉はいけないということは知っています。実際には分かっていないのに、そういう言葉だけが先走りしています。

 文部省の中央教育審議会で過干渉・甘やかしという言葉を使っています。この2つには違いがあります。甘やかしというのは、親が子供の言うとおりになること、子供の言いなりになるということです。過干渉というのは、子供ができることを親が先にして子供にさせないということです。このような言葉一つとってみても、誤解されたり、間違って使われてたり、あいまいなまま使ったりしていますが、注意を要するところだと思います。

 ちょっと話はそれますが、生きる力とか心の教育とか言いますが、確かに言葉の響きは良いのですが、使っている人によってはどういうイメージで言っているのか全然食い違っていることもあります。そういう点も共通認識をもつことが大切だと思います。

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(委員の発言要旨)

 

(しつけには手伝いも必要。子供が楽しみながら身につける工夫を。)

【委員】  日常生活を支える技能・習慣のところに「手伝い」が入っても良いのではと思います。母親がやいやい言ってしつけするが、単に何度も言うというのはどうかと思います。やはり楽しくなければ。子供に語るような親の姿勢が重要です。どのような親の姿勢ではしやスプーンが使えるようになるかということをもう少し考える必要があります。

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(しつけだけでなく、子供とのスキンシップも)

【委員】  母親がしつけだけにウエイトを置いてしまうと、子供とのスキンシップの中の形がゆがめられるので、子供がどう受けとめるかということも考える必要があると思います。

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(家庭でできていないしつけの手助けを団体や地域で。)

【委員】  4番の社会生活の基礎の部分が、本当は家庭の中で済んでいるべき部分ですが、私たちの団体活動に参加される子供で、ここの部分をマスターしていない子供が多くなりました。挨拶ができない、呼ばれても全然意思表示をしない子供がほんとうに多くなりました。本来は家庭教育の問題を、私たちの団体の中で、また地域の中でやっていこうとしています。保護者も子供も団体や地域の中に入り、違う接し方をし、違う角度で見てみると、うまくできることがあり、できなくても安心できることがあるのです。

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(祈り、敬い、感謝する心を芽生えさせるしつけを。)

【委員】  家庭で乳幼児期の対象になるかどうかわからないが、祈るということ、敬うとか感謝する心を小さいときから教えることも必要だと思います。日曜教会とか、外国では家庭の中でも宗教的な行事がありますが、今の日本には欠けている。また、核家族化のため、年寄りや病気の人が家庭にほとんどいなくなり、家族みんなで老人を敬い、病人をいたわるということがない。

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(親と祖父母との良い関係を。PTAによる家庭教育の必要性。父親の教育力の低下。)

【委員】  父母がその親(祖父・祖母)に対して尊敬しない風潮が戦後続いてきたことが、家庭教育の中での一つの問題であると思います。孫の将来ためにしつけに口を出す祖父・祖母もいれば、嫁との関係で何も言わないケースもあります。権利の主張が非常に強くて、義務、責務というか、相手があるということについての自分の責任をないがしろにしてきたと思います。子供に対しても、相手があって、それを認めるというようなことを厳しく話をしていく必要があります。

 PTAがもっと家庭教育に関心を持っていただきたい。家庭教育にもっと力を入れてほしいというようなことをPTAに働きかけ、PTAが自主的に話をしていただけるようになればと思います。

 父親が教育力を失ってきている。母親に任せていることが大きな問題です。教育委員会も企業へ出向いて父親教育をするのはいいことです。しつけは基本のところを繰り返し繰り返し教え込むというのか、一緒に学習していくというのか、そういうような態度が大事だと思います。最近の親の中には、子供にしつけをすることがほんとうに大事だと思っていない傾向があります。

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(子供の将来を考えない親の出現。)

【委員】  私たちが当然と思うことが今の母親で分かっていない人がいる。はしやスプーンの次元よりもっとひどいことです。例えば、おむつがとれなくても何とも思わない、おむつを取る訓練すらしないとか、朝の決められた時間に起きるしつけをしなくてもよいと考えている。子供の将来を真剣に考えている親が少ないのではということです。そこが何か見落とされているような気がします。

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(正しい歴史認識を。)

【委員】  先ほどの親を敬わない、先祖を敬わないという話は、今までの日本の認識が正しく伝わっていないことに起因していると思います。その辺の歴史的認識というんですか、これは見せたくないところ、嫌なところも当然あるわけですが、しかし、それは避けて通らずに、正しい認識を示さなければならない。先の戦争で「日本人て悪いことをしたんだ。」ということだけにならないよう、先祖が日本のためにどのように生きてきたかということが受け継がれていない。今は、その辺の説明がきっちりできていないのです。

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(子供の要求を先取りしない。家庭教育と保育所・幼稚園等の役割分担。)

【委員】  今、幼稚園では、子供が「水」とか「何々」とかいう単語しか言わないのです。先生はじっと待って、やっと「水が飲みたい。」とか子供が言って、会話ができるとのことです。先生が先取りをして水をあげたりする動きをしたらもう駄目で、時間がかかって大変なんですが待たないといけないということです。このようなことを親にも話しているが、「つい忙しいので子供を待たずに、いろいろとしてあげる」という親が多いということです。

 同和保育などで、親自身が体験してこなかったことを子供に伝えていこうという取り組みが既に20年以上実践されています。特別対策で行われてきたことが、一般対策として必要になっている現状です。

 そういうことを、もし保育所あるいは幼稚園が行う、あるいは小学校が、中学校が、高等学校が行うのか、家庭教育の中に戻していくのかというところが問題である。

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【委員】基調提言(テーマ:幼児教育について)

 

〔レジメ〕


21世紀における子育てを考える観点 −意見交換のための覚え書き−


問題意識 :大人が子育てに対する自信を回復する
子供につけたい力について、共通点を探る


<観点1>子供の現在の発達状況をどうとらえているか

<観点2>子供の成長発達を促すために、基本として求められることは何か

<観点3>親の現状と、親が親として自立するために必要なこと。

<観点4>子育て支援−保育所・幼稚園に期待されること−

<観点5>保育所−幼稚園−小学校(「保幼小」)連携について;「小一問題」など

<観点6>子育て支援策として必要なこと(行政、企業、地域など)

<観点7>子供にとっての「最善の利益」とは

 

 

(提言の内容)

 主に保育所・幼稚園での保育ということを課題としました。

 意見交換のための覚書としたのは、当然それぞれ違った立場で、違った考え方があることを前提としています。問題意識として2点を枠でくくりました。

 ただ、きょうの話を聴いていまして、状況が極めて新しいということは共通認識していただきたい。戦後を築いてこられた世代の方には、こんなことではなかったという思いが大変強いわけですが、今は、豊かさの中の困難さという新しい状況の中で、頼りなく思える若い人たちの状況があるとしても、そこへの一方的な嘆きでなく、この状況の中で何がつくれるかという、そういうところで考えてみたい、意見交換をしたいと思います。

 

 観点1

 まず観点1ですが、子供の現在の発達状況をどうとらえているかということです。これは肯定面、否定面両方あると思います。改善点を考えるためです。でないと、お互いに嘆き節になります。
 まず、肯定できること。
 子供の体型が変わってきました。良くなりました。自己主張が、かつてよりできるようになりました。行動力もついてます。まずはやってみるという点です。これについて評価はいろいろありますが。
 否定的な面。
 生活が夜型になってきている。幼児で、午後10時以降に就寝する子供が非常に増えている。1歳、2歳の子供がそれより遅くなっているということ。親の生活と関係しているのです。夜中の外食産業のところに子連れの方が多いとか、夜型生活が子供の発達状況に影響を与えるということがあると思います。
 それから、他者との関係、交渉する力、共感能力。この辺は若者がキレル状態へいくまでに、小さな子供も快不快というか、むかついたりするいろんな状況があるということです。
 それから自己表現力。ある程度の自己主張力はつけていると思うんですが、それが対話能力にまでつながっていない。
 それから、規範のとらえ方が苦手である。ゆっくり考えるということが非常に苦手である。
 このように、子供の発達状況をどう捉えているかという観点で、いくつか出し合ってみたいと思います。

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  観点2

 観点の2は、子供の成長発達を促すために基本として求められることは何かを考えるということです。私としては、とりあえず3点を挙げます。
 1つは、大人が子供とほんとうの意味で向き合っていない状況があるということです。これは家庭も施設保育も含めて感じるところです。例えば子供のビデオ撮影はするが、我が肉眼で子供の表情、動きを見て、喜怒哀楽をともにするということが非常に少ないのではないか。ほんとうに向かい合うということを、幼いときからしてもらっていない子が増えている。現象的には、保育所に入ってくる子で目線の合わない子が以前より増えています。家庭ではリビング・居間で、幼稚園・保育所では保育室など、そういうところできちんと大人が子供と向き合うということが希薄になっている、このことをいろんな場面で確認して、お互いの改善の観点を出したいと思います。
 2つ目は、特に親子ですが、保育も含めて、共同の体験活動が減ってきているということです。例えば、一見、共同体験をやっているようでも実は問題があるということです。お手伝いなどで例えば何か子供に任せます。「これはあなたの仕事よ」ということでは任せるんですが、「一緒にやるから見ててごらん」とか、「そのやり方は違う、こうするんだよ」と言うとトラブルになり、もめたりすることになる。本当は、そうして一緒に一つの事を親子でやるのが共同体験です。しかしトラブルが嫌だから任せっぱなしにする。そういう傾向があるのです。だから、体験は、メニューは提供するけれども、一緒にするという、そのごたごたを大人が引き受けないのです。こういう状況は家庭も園も含めてあります。これは非常に基本的なことであると思います。見せておく、体験させることが子供にしてやることだという誤解がある。その場面での子供との絡み合いを避けているという、この問題が2つ目で言いたいことです。
 3つ目は、やはり大人の諾否が非常に子供に影響を与えるということです。
 いわゆる子供に任せるという名のもとに大人の諾否が明確でない。それはいい、それはまずいというその意思表示は大人として避けてはいけない。これもトラブルになる可能性はありますが、その部分が非常に弱いと思います。
 以上の3点が、観点2のところで私が考えたところです。

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  観点3

 観点の3は、親の現状と、親が親として自立するために必要なことです。これは、基本的には親が幼くなっている。保育所のベテランの先生は、もう子供が子供を育てているようだと言います。事実として、現状は現状ということで受け止める必要があると思います。子育てをしているという当事者意識、そういうものを明確に若い親に持ってもらうということのためにどんなことが必要なんだろうかというあたりを考えたいのです。
 1つ目には、自主性尊重という考え方のもとで、いわゆる受け入れる、受容するということと放任とが混同されている。「うちは放任です」と言って胸を張ることもあれば、「うちは自主性を尊重しています」ということで胸を張ってしまう。それはやはり大人の責任の放棄です。自主性尊重という言葉の麗しさに惑わされないようにする必要があります。
 2つ目に、母親の不安、あせりの問題です。
 若い母親の中に「子供と一緒だと応援してもらえる、サポートしてもらえるが、母親としての私というのにはサポートがない。保育所でも、子供ぐるみのことだったら相談に乗ってもらえる。しかし、私が不安であり、私が仲間が欲しくて、私の場が欲しいという、それについては極めて冷たい、それを何とか位置づけてほしい。」という声があります。そういう意味で、親の側の一種の精神的状態、母親の不安定性、孤独、あせりというあたり、それをどうフォローするかということは、どうしても今の子育て状況の中で検討する必要があるだろうと思います。
 3つ目に、子離れができないという問題があります。
 先ほどの過干渉も一緒です。
1回生の学生、18歳ぐらいの若者40人に自立って何だと思うと聞いたところ、まず、でてきたのが経済的自立、その次が、自分で決められる、自分で考えられるということで、身体的自立を言う人はいなかった。
  私から、子供が歩けるようになる。それも自立ではないか。小さい子供が、親のひざにとことこと自分の足で歩いてきてくれるときに、親はとても幸せだと思うと、例をあげました。自分の足で、自分の意志で来てくれるんでとても幸せだと思うけれども、逆に、歩いてこれるということは自分の足で歩いていく。だから、歩いていく力がついたということは、自分の意志でそこからおりて、いけることでもある、それをどう思うと聴いたら、学生たちは衝撃を受けていました。そこの部分に親の方が耐えられない。過干渉になるのはそこなんです。親の自立ということを考えていきたい。
 私は現職教員と一緒に学ぶわけですが、皆さん、教師として、保育者としては親に対していろいろ注文をお持ちなんですが、いざ、我が子の子育てになるとみんなうなだれるんです。それぐらい自信が持てないんだなということがすごくよくわかりました。
 そんなことで、親が親として自立するために必要なことというのを、今日的な状況の中でストレートに話し合う必要があるのではないか、というのが3番目の観点です。

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  観点4

 4番目は、保育所、幼稚園に期待されることとしての子育て支援です。
 これは本年度の4月から幼稚園教育の根幹になる幼稚園教育要領が新しくなり、保育所保育の根幹になる保育所指針が新しくなっております。どちらも若干の変更があって、特に保育所のほうは、いわゆる就労と子育ての両立支援ではなくて、広く子育て支援を行ってほしいというので、地域も含めてそういう方向を打ち出しています。
 幼稚園のほうは学校教育の範疇ですので、保育所ほど明確に出てませんが、しかし、園の開放とか、園に在園しない親子に対する援助もしてほしいという、地域での子育てのセンターにという、そういう方向を打ち出しております。
 そういう中で強調されているのは保育者の役割です。これは学校教育との関連もありますが、これまでの教育要領との関連で、保育の中でしつけの部分とか、セルフコントロールの部分をどう考えるか、意見がわかれるところです。わかれるところですが、現象的に自由保育的になったことが学校教育を困難にしているという一つの評価があります。それをめぐって、教育要領のほうも大変苦心されたようで、大きな方針は変えないものの、大人の役割をもう少しきちんと果たしてほしいというので、保育者の役割というのを幼稚園教育も保育所保育も前面に打ち出しております。
 それから、他者とのかかわり、子供の相互のかかわりが非常にまずいということ。これは、先程来の少子化、地域の崩壊等々で、すぐに暴力ざたにもなり、交渉ができない、自己表現が適切にできないという、社会性の発展になると思います。これは幼稚園教育要領、保育所保育指針とも非常に危惧して打ち出しております。
 それから、規範意識も打ち出しています。いわゆるルールの問題とか、この辺が非常に崩れたということですね。
 さらに、保護者との連携の問題。保護者は二極分解しています。いわゆる高学歴化で、保育所、幼稚園、そういう保育施設からは我が子育てについて何の進言も必要はないと考えている方、それと対照的に、離乳食のつくり方からもう保育所、幼稚園にむしろお世話になりたいという、そういう保護者がいます。親が二極分解している状況の中で、保育所、幼稚園が子育て支援・子育て相談にどう応じるかということを幼稚園も保育所も課題として強調されております。
 そして、保育内容ないし文化の問題。これはメディアとか社会生活がそのまま反映するわけだけれども、ほんとうにすぐれた保育内容や文化を子供にきちんと与えていくためにはどうしていくか。今、これといった方針がありません。社会からはいろんな情報が流れてきますから、懇談会で話し合って、一つの方針を出す必要があるように思います。

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  観点5

 以上のことを受けて、保育所、幼稚園、小学校の連携の問題が出てくると思います。
 右側に「小一問題」と書きましたのは、いわゆる学級崩壊等々が言われて1年生も非常に苦戦をするというのです。文部省が委託した国立教育研究所の学級経営の充実に関する調査研究というレポートの中で、小学校の低学年については学級崩壊と混同しないほうがいい、それは小一問題というふうに別個にとらえたほうがいい。それはある意味で幼児性が1年生で克服できていないんだと。それを受けて各自治体の研究会が言っているんですが、例えば幼年期、4歳から7歳ぐらいまでを一括して、子供を引きつけるような学習やら、いろんな教育の仕方というのを工夫しなきゃいけないんじゃないかというので、保幼と小学校に横たわる溝の部分をもう少し大人の側がきちんと考えてみようという。そういうことがありますので、この保幼小の連携というのが奈良県でもひとつ大きな課題になってくるのではないかというのが一つ。
 それから、内容的には、これは教師教育にもかかわってきますが、小学校が生活科、さらに、今から総合的な学習ということで展開してまいります。幼稚園は、10年前、厳密には10年たっていませんが、さきの教育要領の中で、総合的に遊びを仕組んでいくんだということで、いわゆる教育・保育活動の総合化の道を先に走っています。いろんな批判もあったわけだけれども、原理としてはそこがつながっていくので、そのあたりのところを保幼小の連携として詰めていくことで、何か新しいものが打ち出せるのではないかというのが観点の5です。

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   観点6

 観点6は、子育て支援策として必要なこと(行政、企業、地域など)です。
 いろんな考えがあろうかと思いますが、やはり育児と仕事を両立させるということで子育て支援策が要ると思います。
 ただ、これは、預けやすさと働きやすさが対立します。
私は働きやすさにサポートが必要だと思いますが、預けやすさに流されているという批判があります。補助が預けやすさの方に傾斜しているというのもあります。そこのところを一面的批判でもなく、実際の若い親の側にも立って、どういう支援策が必要なのか検討すべきだと思います。その中で育児休業の問題があります。育児休業をとらなかった人は、職場の雰囲気でとれなかったのか、経済的に苦しくなるからか、幾つかこの辺のデータもありますので、そのあたりを検証したい。また、さらに子供が病気した場合の休暇の制度が欲しいとか、いろんな意見があります。
 保育施設の側では、保育時間の延長、休日保育が厚生省の大号令のもとですごい勢いで進んでいます。主に民間保育所が中心ですが、公立のほうも動き出しています。
育児と仕事の両立、子供の預けやすさと働きやすさという点で、意見が対立すると思いますが、何らかの最大公約数の合意で方針を打ち出す必要があると思います。
 父親の子育て参加についてですが、日本の父親はほとんど子供のエピソードを持っていない。だから、途中でしんどい時期に、「お父さん、何とか言って」と言われても、ほとんど説得力を持たない状況です。これは日本の男性が、人間関係を結ぶのが苦手なところにも原因があると思います。女の子のほうは、わりと対人的な遊びをしている。男の子は漫画を読んだり、ゲームしたり、ひとり遊びが多いというところとも関係してくると思います。父親の子育て参加というのはいろんな意味でそういう対人関係を結んでいくという課題ともかかわってどういうふうに支援していくかということが課題としてあると思います。
 さらに、地域とかネットワークも考えていけたらと思っています。

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   観点7

 7点目です。「子供にとっての最善の利益とは」ということです。
この「最善の利益」という言葉は、直接的には児童福祉法と、新しい保育所保育指針の中に乳幼児の最善の利益を考慮して実践を進めるべしという言葉から採ってきました。
いろんな立場の考え方がありますが、次のような考え方で懇談会としての意見がまとめられないかと思っています。
・ほんとうに子供を大事にするとはどうすることなのか。
・大人とトラブルを起こしても子供につけなければならない力は何か。
・最終的に、その子が生きていくために、その子が最善の利益を得るためにしなければならないことは何か。
 いろんな立場の先生方の御意見がそれなりの観点の中で少しまとめられないかと思って、ご提案します。

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III その他

 

【委員】

 私の知り合いに、インターネットでこの懇談会の情報を見た感想を聞きましたら、多分事務局には出さずに私のほうへファクスが来たんだと思うんですが、インターネットのホームページA4版15ページを通読するのに骨が折れたと書いているんです。これで一般県民の意見を募集するのは難しくなかろうかと。だから、全文は掲載するとして、何かちょっとコンパクトに、その工夫をしてみたらいかがでしょうか。

 

【会長】

 次回の予定ですが、前半は今日の後半の基調提言についての各委員の意見発表とし、後半につきましては、義務教育ということで小・中学校の教育について討議をしたいと思っております。

 なお、次回は、平成13年2月6日の火曜日に開催します。

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                      〔文責は奈良県教育懇談会事務局〕

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