第4回奈良県教育懇談会討議の概要
 
◇日時  平成13年4月19日 13:30〜16:00
 
◇場所  奈良市登大路町「奈良県文化会館」(集会室A・B)

◇発言のポイント 
T 意見交換(義務教育について)
U 教育行政側からの説明(教育懇談会の意見・提言についての関連施策について)
V 意見交換(教育懇談会の意見・提言についての関連施策について)
 
W 専門調査部会の設置及び県民「5,000人アンケート」調査の実施について
上 野 ひろ美 (うえのひろみ) 奈良教育大学 教授
大 村 喬 一 (おおむらきょういち) 奈良大学 教授
部会長 杉 村  健 (すぎむらたけし) 京都学園大学 教授
中 西 幸 雄 (なかにしゆきお) いじめ問題等連絡会議代表
前 原 金 一 (まえはらかねいち) 株式会社住友生命総合研究所 代表取締役社長
 
◇次回懇談会  平成13年7月30日(月)
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◇議事概要
T 意見交換(義務教育について)
 
(義務教育の中では、急がせるよりもゆとりを。勉強への興味を持ち、みんながその教科を好きにさせる教育を。)
【委員】 資料を見せていただいて、大変勉強になりました。各種指導要領の変遷が見事に解説されており、時代に即してこのように変化せざるを得なかったという感じがします。私は、昭和31年に教職に関わりり、間もなく中身の変わる指導要領の勉強会をした経験があります。新任教員から10年経っての昭和43年辺りの指導要領の中身に少し問題があったと思います。そのときに、私は高等学校での教職におり、系統化、現代化、科学化という言葉が盛んに出ていろいろな教育問題が周りで沸騰しており、鮮やかに記憶に残っています。
 
 そのときの印象ですが、当時、芸能科という言葉があり、1年生に限り全員、美術、音楽、書道をやらせるというシステムでした。これはとてもいいシステムだと随分感心いたしました。ところが、時が時ですし、1年生に芸術科の単位が多過ぎると職員会議ですぐに出て選択になってしまい、1年生で全員に芸術を体験させるという見事なシステムが終わってしまいました。
 
 当時、小学6年生の我が子の小学校で、5、6年生にペンチとか新聞紙とかをモチーフにして克明に写生するという課題が与えられました。しかし、学校ではでき上がらなくて子供たちは家に持ち帰って仕上げたということがありました。たまたま学級懇談会に出た折、図工に対する保護者からの不満が続出し、「うちの子供は、泣きながら絵を描いている。いつ見ても絵を描いている。これでは勉強ができない。」という苦情が沸騰したのです。そのときに、私は「実は、この課題は無理のない適切な題材で、泣きながらでも取り組んだのはとてもいいことだ。」と話したことがありました。管理社会が台頭し、進学中心になり始めるときでしたから、中身の濃い教科書中心の勉強に乗せようと、親たちのいら立ちがすごかったのです。
 
 何かにつけて、昭和43年のあたりから現場ではおかしくなったというとらえ方をしています。今は、心の広やかさ、豊かさ、そして創造教育というのをうたった戦後の教育に、やっと目覚めて戻ったような感じがします。
 私は義務教育においては、いろいろな問題点や提案が提起されているとおりで、急がせる教育よりも義務教育の中でこそゆとり教育のほうがいいのではないかと思います。
 
 評価が理数系科目でそれなりの高さをとっている日本の子供たちということですが、中身はみんな理科なり数学なりが嫌いなんだというこの結果。私は義務教育の中で教科嫌いにさせるのはよろしくないという感じがしております。みんなが勉強への興味を持ち、その教科が好きになる教育の方向を見ける必要があると思います。それでは、どうするのかという問題が残るのですが、以上のような感想を強く持っています。
 
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(実験中心の塾に何年間か通うと、小・中学生で大学の最初くらいまでのレベルに到達する事例に、理科教育のヒントがありそう。)
【委員】 東京の財界のほうでも、21世紀のことをいろいろ考えている中で、広義のバイオテクノロジーが非常に重要であるということで、昨年から30人ほどの財界人が集まり、新技術戦略委員会というのを始めました。
 勉強すればするほど、生物学、医学、薬学、あるいは最近話題になっているナノテクの問題も含め、日本の経済社会に価値観をひっくり返すような大きな影響を与えるのではないかということで、提言をまとめようとしています。
 そういう中でいろいろな分野の専門家を呼んで勉強しているんですが、理科が嫌いであったり、生物学の勉強をしていない医者や技術者が大変多いということが問題になっています。理科、生物、命とかいうことをどう面白く教えればよいのかというのは、大変大きい問題ではないかと思います。
 それで、実は別のところで、勉強会の中のお一人である阿部進という先生は塾のようなことをやっておられ、実験中心の理科教育を非常に熱心にやっておられます。この方の塾に何年間か通うと、実験をやっているうちに小学生とか中学生くらいで、ある程度大学の最初くらいのレベルに到達してしまうというデータを見せてもらいました。こういうやり方をもう少し研究すると、楽しみながら、感じながら、体験しながら学習させるという方法が分かり、大変面白い。場合によれば専門家の先生方にも、阿部先生の授業を1回見てもらえばどうかと思っています。
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(探求の過程を重視した指導と入学試験との関係、学習指導要領の最低の基準と絶対評価の関係、できる子もそうでない子も伸ばす指導法の工夫、学校選択の自由と中高一貫の関わり、これらをどう考えるか。)
【委員】  新しい学力観に基づく探究の過程を重視した、つまり単に原理や法則等の結果だけを教えるのではなく、そこにたどり着く過程を大事にするという現行の学習指導要領で今やっています。しかし、一方では、私立中学の入学試験や高校入試等では、結局は結果だけを覚えたらいいという傾向があり、子供たちに興味をなくさせているのではないかと思います。
 
 これから、毎週土曜日が休みになり授業時間がカットされる、3割の学習内容がカットされる。そこで、国のほうでは、学習指導要領は最低の基準であると言い出しました。今までは、教育の基準については労働基準法のように最低の基準ではなく大綱的な基準であった。つまり、上もあれば下もあるということだったのが、今度は、指導要領に盛られている内容は最低であるとなりました。これは、3割カットしたことにより、よくできる子の学力が伸びないという批判に対して、これは最低の基準だから難しく教えてもよいという示し方をしたわけです。ここに非常に大きな問題があるのではないかという気がします。
 
 それと同時に、子供たちの学習内容の評価が絶対評価に切り替わります。つまり、指導要領に盛られている最低基準に到達できなければ絶対評価としては不合格になるわけですので、絶対評価の最低基準をどのように考えていくかもまた問題となります。
 
 もう一つは、第7次の教員の標準法の改正により少人数学級というのが導入され、40人を生活集団として、20人ずつを学習集団にできるようになりました。しかし、問題は、40人を単に2つに割るだけでは指導法の改善にはならないと思います。どのような学級を構成するかが、今、教員に問われているのではないか。やはり習熟度別や到達度別により指導方法を工夫し、できる子は伸ばす、できない子も伸ばすという形になればと思います。
 
 さらに、枠組みのことですが、東京都では義務教育においても学校選択の自由が導入されている。Aという小学校を選ぶかBという小学校を選ぶかは、ある程度親の選択に任せるということです。これは、学校現場にとってみれば、競争ということになると同時に学校の特色づけということにもなってくるでしょう。これを今後どのように考えていけば良いのかという課題もあると思います。
 
 そして枠組みのもう一つは、奈良県では少し停滞していますが中高一貫。奈良女子大附属では、中等教育学校をやられていますが、いわゆる自然学級で中高一貫の6年間教育するのは非常に難しい。そうすると、どういう形で中高一貫に耐える生徒を小学校修了者から選ぶかという問題が残ります。学校選択が認められてくるということと公立の中高一貫とをどう考えていくかは、枠組みの上での義務教育における大きな課題でしょう。
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(ある先生から、習熟度別はポイントを絞れてやりやすいと聞いたが、奈良県の場合の習熟度別のクラス編制についてのお考えは.)
【委員】  今、発言のあった習熟度別ということですが、習熟度別でやっておられるある学校の理科の先生から、四十数人のクラスで教えてもポイントを絞れて指導がし易く、人数の問題ではないとお聞きしました。例えば甲君なら、甲君が数学はAだけど理科はCのクラスという編制になるのだろうと思うのですが、奈良県の場合、果たしてそういう習熟度別のクラス編制を考えておられるかどうかお聞かせいただきたいと思います。
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 (小学校で算数、中学校で国語の習熟度別をスタートさせようとする学校もある。)
【委員】 少人数学級は、平成13年度からスタートしておりますが、親にも子供にもしっかり話をし、納得させ、少人数学級を生かすようにと郡の校長会で話をしました。3日前の校長会で、ちょっと確認をすれば、A町で一つの小学校が、算数で習熟度別のスタートを、それからB中学校では国語でスタートをしようと、今、親の説得にかかっているとのことでした。1学期ごとに学級構成を変えるという計画でいるようですが、まだスタートはしていないようです。以上紹介したような取組みが現実に行われています。
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(小学校の1・2年は集団指導を、小学校の3〜6年は基礎・基本の定着を、中学校は能力・適性を念頭においた少人数指導を、平成13年度から5ヶ年計画でスタート)
【教育長】  第7次の教員の定数改善計画というのが13年度からスタートし、5ヶ年計画になっています。お話しのように2クラスを3クラスに分けて少人数で指導をし、教員の数をふやして配置する考え方があるわけです。学年の特徴や適用する趣旨等をそれぞれの各府県が、独自に議論をしながら少人数指導を今つくり出しているところだと思います。
 
 今まで1つのクラスを2人で指導するというチーム・ティーチング(TT)に198人を加配していたが、今回さらに、少人数指導のために合計で240人ぐらいはできそうな様子です。さて、そのときに、複数指導を引き続きやっていくかどうかという議論をしたのですが、やはりこの機会に少人数にクラスを分けて、一人の先生が一つのクラスに対応するということになりました。
 
 まず、今抱えている課題に応えられる少人数指導にしたいということで、一つは小学校の低学年1、2年生の集団指導の課題です。奈良県の場合は学級崩壊というようなそれほどショッキングな場面というのは、全国的に見れば少ないかもしれませんが、集団生活に全くなじまない子供が学校へ入ってきて、1年生の先生方がご苦労されるということは現実にあります。従って、まず低学年の1、2年のときには、きっちりと集団生活や人間教育に力を入れるために少人数指導をしていきたいと考えています。
 次に、小学校の3、4、5、6年ですが、3、4年ぐらいから算数等で少し抽象的に物を考え出します。この時期に、基本教科の基礎・基本が確保できなければ中学から高校へずっと引きずります。ここでは教科の基礎・基本を徹底してやれるような体制をとりたいと考え、2クラスをを3つに分けての少人数指導を考えています。従って、私たちは、小学校段階ではこの子はできるからといって応用までをということは考えていません。あくまで、基礎・基本を徹底して教えるための少人数指導だということです。
 さらに、中学段階での少人数学級指導は、一つには、付けきれなかった基礎・基本をもう一度やり直すというのと、もう一つには応用とか適性・能力を伸ばすことを念頭に置いた習熟度別少人数指導を考えています。
 
 小学校1、2年生の時は生活科というのがありますが、これからの5ヶ年でこれを入れると1週間のうちの3分の2は、少人数指導で授業ができることになります。それから、3、4、5、6年では1週の内2分の1ぐらいの時間が少人数学級で対応できることになります。中学に入りますと、英語と数学と国語で3分の1の時間は習熟度別や達成度に応じた学級集団をイメージして、今から進めていこうとしています。
 
 これらはご批判いただいたらいいのですが、単純にぱっと分けたというのではなく、考え方としては先ほど申し上げました考え方で、奈良県バージョンの少人数指導の体制を作るために平成13年度から一歩踏み出したところです。
 先の委員の方のお話だと、小学校のところで習熟度別の考え方をとられているということでしたが、それぞれ学校でいろんな独自のご判断をしていただくのもよろしいですが、十分に議論もしながらやっていきたいと思います。基本的な県のスタンスは、以上述べたとおりです。
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(たとえ学校で易しいことをやっても、社会に出たらあっという間に荒波にさらされてしまう現実を見れば、習熟度別は必然。個性化の前提は、変わり者は面白いというとらえ方であり、それでもって、才能のいい面を伸ばせる。優しさを実行するには強さも必要。)
【委員】 今、習熟度別やエリート教育の話が出ましたが、実は大学においてもその問題が非常に大きな問題であると、私もいつも思います。要するに、できるできないというよりも、意欲があるかないかということで学生を分けないと、どうしようもなくなってしまう状況が、今、現にあると思います。残念ながら、私の大学では分けることはしてませんが、将来の方向としては習熟度別的なクラスを作っていくことは、必然ではないかと思います。
なぜ必然かといいますと、今まさに全世界的な競争という中に入って、恐らくサラリーマンの3分の2はリストラの危機にさらされているという状況です。そのような中では、たとえ学校で易しいことをやっても、社会に出たらあっという間に荒波にさらされてしまう。そうであれば、むしろ学校時代からきっちりとそういうことをやっていくということが、必要になった時代ではないかと思うので、習熟度別の点については、私は必然なことと考えます。
 
 あと二、三、私の考えていることを、少し抽象的かもしれませんが、お話しさせていただきたいと思います。
 まず、個性化のことです。個性化というと、非常にいい感じがしますが、個性化の前提とは一体何だろうかと考えてみますと、やはり、変わり者を異端視しないことです。例えば服装にしても、運動にしても、何の分野においても、変わり者を異端視し、のけものや村八分にして、それがいじめになっているのかなと思います。だから、個性化というものの前提条件は、変わっているからといってつまはじきをしないことです。しかし、ここのところが本当は難しいのではないか。なぜ難しいかといいますと、社会全般がそうなのです。会社もそうだし、あらゆるところがそうなのです。変わり者はおもしろいといって、本当は先生がいいところを認めて、他の生徒たちにその良さを強調して、「こういう人がいるからこそ人間社会というのは面白いんだ」という形のプレゼンテーションをして、生徒たちの雰囲気を何とかしなければならない。そうでないと、個性化といってもこれは掛け声ばかりであって、異端の人を結局は放り出してしまうことになってしまう。実のところ、外国と比べるわけではないが、今までの学校教育は、でこぼこを全部平均化するというところに本質があったような気がします。
 
 例えば、一つだけ例を挙げると、子供たちがけんかすると、我々はもう悪いことだと一挙に決めつけてしまいます。しかし、本当にそれが悪いことなのかどうか一生懸命になって、我々が考えたことがあるだろうか。それはなぜ悪いのかといえば、管理者である先生や保護者に不快な目をさせるから悪いのであって、けんかというものは、私の経験、あるいは外国の経験からいうと、子供たちのけんかというのは当たり前なのです。
 私は今でも忘れない一つの例があるのですが、アメリカの学校に私の子供がいたときに、けんかして、もうさんざん真っ黒になって帰ってきた。それで、私も日本人と同じように怒り、「けしからんじゃないか。先生の管理がなっとらん。」と言って小学校に文句を言いに行ったことがあります。そしたら、こう言われました。「大体、子供は普通けんかするものなのです。けんかして、それが大ごとにならない限り、普通の現象だと私たちは受け止めています。従って、これがよほど過激にならないようには注意しますが、けんかそのものが起こったからといって、直ぐは止めません。なぜならば、けんかした同士が最も親しくなる。そういうきっかけを現実につくっているんです。」という説明を受けました。私は、そんなものかなと必ずしも全部納得したわけではなかったのですが、自分の小さい頃を考えてみてもやっぱりけんかというのは日常であったような気もするし、今考えてみると、けんか相手が非常に懐かしい。それは、人によって違うかもしれませんが、陰湿ないじめよりも、むしろそういったけんか、正々堂々とやるけんかのほうがはるかにいいのではないか。
 
 義務教育の中でも、そういう変わり者というのは必ずいるし、家庭事情によっては当たり前だとも思います。そういうもののでこぼこを直さない。むしろ逆に言えば、才能をそういう中からどうやって伸ばすかということを、本当は義務教育の中でやっていければ一番理想的かなという気がします。
 
 次に、集団の和ということが日本では少し強過ぎるような気がします。その結果、さっきの個性化とは実は裏腹になってしまう。例えば、「優しくしなさい。仲よくしなさい。」といいますが、隣を見てみれば先生方とかがそれぞれ派閥をつくってけんかしているわけです。そんなことは子供たちはすぐ分かる。両親が仲よくしているかというと、決してそうでもないケースも多い。そうすると、建前だけで本音が違うのがいつの間にか習い性になってしまう。だから、そういう建前と本音の乖離自身が、実は小さい頃からたたき込まれてるのではないかという気がします。
 
 もう一つ、例えば、「電車に乗って、老人がいたら席を譲りなさい。」と言いますが、席を譲るということは、実は勇気がないとできないものです。なかなか「どうぞ」と言えないのが、現在の若者の現実であると、私も電車で通っているからよくわかるのです。子供を連れたお母さん方が来たって、平気で席を譲らない。譲る人も時々はあるのですが、大部分は譲らない。私も時々、勇を鼓舞して、「おい、君譲りなさい。」と、こういうこともありますが、年がら年じゅうそれを言うと、ぶん殴られたら困ると思うものですから、やはり勇気が必要なのですね。何かいいことをする、優しくあれということはいいのですが、その優しさの裏打ちとして強さがなければ実行できないのだということを、何らかの形で教えなければいけないのです。そういうことを義務教育の中で何とかできないだろうかと思います。しかし、これはないものねだりなのかもしれません。というのは、我々自身が極めて臆病で、何かおどかされるとすぐ引き下がってしまう性格を、実は私の中にもあるものですから、それを人にやれと言うのは、少しないものねだりかもしれないのですが、義務教育の中で何とかして芽を出させるような方向に持っていけたらと思います。
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(子育てに悩む多くの父母の実態がある。特に、受験、いじめで苦悩する親の姿がある。変わり者と見られてしまう子の背景を理解することが肝要。)
【委員】 家庭教育アンケートの調査報告書を見て、子育てがまあまあ楽しい、または楽しいと感じているお母さんたちが90%以上というのは非常にうれしいことだと思いました。しかし、義務教育に携わっている子供たちを育てているお母さんは、本当に心から楽しいと思っているのかと不安になりました。なぜかと言えば、私の所属する団体の親たちの様子を見ていると、私立中学なんかを受験するようになったとき、毎日のように電話で、「うちの息子の偏差値が・・・」と、子供よりもお母さんたちのほうが必死という現状があり、楽しいよりもお母さんのほうが非常に苦痛というように思うからです。また、中には、ある日突然「楽しくなくなる」という方もありました。これは、学校で自分の子供がいじめられる側になって泣いて帰ってくると、「ああ、私、この子よう育てんわ」と子育てを放棄したくなるということのようです。こういった親の現実があるということを絶対見逃してはならないと思います。
 
 私たちのグループで、命を大事にしなければならないことの話し合いを深める中で、我が子がまた小さな子供を手にしたときに、私も母さんやお父さんにこうして育まれて大きくなったのかと将来感じることを、義務教育の中で感じさせる機会をつくることができないかということになりました。
 
 先ほどの変わり者ということですが、小さい頃に変だと見受けられる子が現実にいるわけです。変わっている子供がなぜそういう変わった言動や態度を取るかを、クラスみんなで分かり合えたり、また、良いところを見つけたりできないかと思う。そうなれば、取り巻きも、突然、「ああ、そうなんや。私たちが、間違った見方をしてたんや。」というように、子供というのは素直に評価すると思います。このような義務教育になるように、指導要領等も見直すことができないかと感じました。
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(少人数、習熟度別によって子供の自己表現を引き出して、教師との応答関係及び子供相互の応答関係をつくれる。この条件が少人数・習熟度別の中に満たされなければならない。) 
【委員】 少人数または習熟度別ということで、一つ考えていることを申し上げます。
 子供の表現をどう引き出すかというところを一番大事に考える必要があるのではないかと思います。少人数によって能率や効率を目指すのではなく、そのときに学習している教材や教科内容に関して子供が何らかの自己表現し、そこに応答関係が生まれることを目指すのがポイントではないか。だから大人や教師には、子供がしてくる何らかの自己表現に対して対応できることが必要条件になるわけです。
 
 そのときに子供が自分の理解の程度やわからないことを表現します。私も最近授業のやり方を考えまして、表現を引き出すようにするのですが、他の人がこんなことを考えていたのかということを知る機会がどうもないようです。積極的な子は自分で議論し始めますが、黙っている人も後から書かせれば、実は参加していなかったわけではないということを書いてきます。これは小・中・高での教育体系の中で、ひたすら聞いて、ノートにする、覚えるという学習経験が非常に強固に刻みつけられてきた結果のように思うのです。こういう私の経験から、先ほど申し上げたようなことを思うわけです。
 
 子供が変わった、あるいは学校の役割が非常に肥大したという現代的な課題があると思います。これは、基調提言にありました生活・体験・系統化をどういうふうに統合していくかだと思います。子供が自分の感じたことを自己表現できれば、そこには生活が反映されている、極めて個性的なものが出てくる、体験的なものがそこに生まれてくる。しかし、それで終われば生活だけになってしまうから、教師によって系統化させる必要があります。つまり、教師がゼロから積み上げる教え方ではなくて、子供は途中のどこで何を出してくるかわからないということをあらかじめ想定しておいて、それに対応していくということで系統化を図るという道が開かれるのではないかと思います。
 
 申し上げたかったことは、少人数、習熟度別によって子供の自己表現を引き出して、教師との応答関係を作っていける、その中に子供相互の応答関係も作っていける。これがシンプルな条件として満たされなければならないのではないかということです。
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(少人数・習熟度別指導の効果は期待でき、教員数の確保が肝要。当面、小規模校や特定学年に集中的に教員を割り当てる工夫も必要では。まず、教員数の確保を。)
【委員】  習熟度別、少人数学級の感想を含めて申し上げます。私は、TT(Team Teaching)あるいは少人数学級で実施することの大切さや効率性については十分認めており、今後さらに深めていかなければならないと考えています。しかし、私がいた学校現場では、学級数が30のところへTTとして1人いただきました。親や社会は、TTについて大変期待感を持っておられるが、実際、そのTTを実施できる学級というのは1学級だけということになります。今度も、実験的に少人数学級ということで1名の加配をいただいたが、実施するのは30学級の中で1学級だけです。たくさん報道されるので親は、うちの子供もやってもらえるという強い期待感を持っているのですが、実際はごく一部だけしか実施できないということです。
 
 「TTで2人が入る」とそれだけ聞いたら、親は本当に期待するが、何名入っても奈良県で実施できるのはごく限られてしまう。そうであれば、例えば5年計画で入る教員を小さな学校へ集中的に割り振り、効果があれば、さらに大きく増員するというような将来性を持った計画を立てないと、現場では中途半端になって大変苦労すると思います。あるいは、例えば1年の学年全体にそれができるような方法で導入していただいても、現場ではやり易いと思います。
 
 これは、奈良県ではなくて文部省が、今の余っている教員数の現状を見て、そういう形にしたと思わざるを得ない施策だと私は思っています。もっと費用をかけ、教員数を確保してから実施するという根本的な教育改革を、もっと上に言わなければならないのかもわかりません。
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(学力低下の問題が、一番大きい。少人数・習熟度別での対応が効果的。それには、今の時期からの指針が必要。塾の学校化、学校の塾化の研究も必要では。)
【委員】 私は、やっぱり学力低下になるだろうと心配しています。指導要領では最低限ということですから救いがあるとは思うのですが、習熟度別や到達度によって学級編成ができるのなら、非常に結構なことだと思います。
 
 一方に、公教育の反対側に塾があるわけですが、塾もよろしいというわけにいかない。本音と建前という話で、みなさん塾は行かさないと言いながら、自分の子供だけは行かせている現状がある。塾の中で人間教育もする塾の学校化、学校の塾化をお互いに研究しながら進めていかなければならないのではないかと思います。
 
 先ほどからの習熟度別によって、ボトムアップはされると思います。だから、大胆に今の時期から指針を出さないと、先の委員がおっしゃったように人数の加減もありできないだろうと思います。その結果、塾通いがますます激しくなっていくことになってしまう。
 
 小学校や中学校で、学力低下、「それは困ったことや」という保護者の声を平素たくさん聞いているわけですから、ボトムアップもいいけど、レベルアップも考えていかなければいけない。学力低下の問題は、やはり一番大きな話題ではないかと思います。
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(習熟度別はいろいろな教科で。ここ4・5年、学力低下を感じるが、学校では、昔の読み書き・そろばん的な学力の徹底を。
【委員】 習熟度別の話を聞いたときに、英語の時間に分けられた自分の中学生時代のことを思い出します。あの時分から外国語が苦手で、その時間が来るとものすごく嫌な思いをしていた。だから、習熟度別でするときは一つの教科だけでなく、いろんな科目で行うことが必要だと思います。
 
 そういう反面、私たちの活動の中で就学前の幼稚園の年長の子供からずっと見てますが、ここ4、5年、学力が低下しているとすごく感じます。学力というのは生きる力に通じるものだと思うので、学校教育の中で私はやはり勉強といいますか、学力を付けていただきたい。なぜ学力低下を言うかといいますと、最低限の、昔でいうと読み書きそろばん的なことがきちんとできていないと、どんなに前向きな子でも応募用紙の一つも十分に書けないという現象が実際に起こってきています。
 
 ガールスカウトに4年生から入った子供と、1年生から入っていて同じ4年生になった子供とでは、理解する点では全く変わらないのですが、物事に取り組んだときには全然違う。楽しみながらするとか、自分が喜びをもってするとか、人を巻き込んでいくという能力にかけては、経験というのがすごく物を言う。学校教育の中でもこういった経験を見直して欲しいと思います。
 
 パソコンとかメールとかを使うとき、理解力のない子供というのは言われたメールは打つのだが、少し何かアクシデントが起きればパニックを起こしてしまって、説明文を読んで対処できないということがあります。私は機械音痴ですが、「説明書のここに書いてるやんか」と言いながらやってやれば、生徒が驚いてしまうということが先日もありました。やはり、理解力不足のためにできないということが起こります。今、指導要領が変わりつつありますが、学校は学校としての本分をしていただきたいと思います。
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(人間として変わってはいけない不易なものと、時代の変化に応じて変えなければいけないもの(流行)とのバランスを。今や、流行として 義務教育で英語・コンピューター等も入る時代ではないか。)
【委員】  二、三、質問というか、どなたかに答えて欲しいのですが。
 あるときに、ラジオでの身上相談で、「うちの息子は九九ができなく、毎日九九で悩んでいる。それだけ九九を教えなくてはいけないのですか。」とおばあちゃんからの質問でした。この質問への回答者は、「今、計算機、誰でも持ってるではないか。買い物に持って行って、パッパッと計算機を押せば、九九なんか覚える必要ありませんよ。そんな苦労せんでもよろしい。」と答たのです。私が受けた教育からすると、何ということを言ってくれるかと思うのですが、でも、それも一理ある。
 
 ある工業高等専門学校の先生方から聞きました。今の高専の生徒はものすごく優秀だと。特に電気科とか、機械とか、技術系は優秀だと。しかし、分数はできないから、夏休みの補講で分数を教えてやらなければいけないと。ところが、微分積分は全部できるというらしいです。これを、一体どう理解すればよいのかと思います。
 
 それからもう一つは、ジベタリアンと呼ばれる女の子が、携帯電話を使ってインターネットを平気でやりますね。ジベタリアンを見ていれば、だらしないと思うがそれだけの能力がある。私は不易と流行という言葉が好きで、人間として変わってはならないもの、あるいは国民として変わってはいけないものというのは不易で、逆に時代に応じてやらなければならない流行とがあります。今のように、携帯電話なりが簡単にできるというのは、流行に乗っていると思う。ところが、残念ながら、ジベタリアンという格好になると、「それでいいのか」と言いたくなります。人間としての在り方なり何なりというのがあってよのではないか。
 
 義務教育のときに、先ほどの九九の問題も含めた読み書きそろばんというのは絶対に必要だと思うが、人間として絶対に不易のもの、変わってはいけないもの、日本国民として変わってはならないもの、こういったものもしっかり教えるということが必要です。流行という面を考えれば、今、世の中がこれだけグローバリゼーションになってきていますから、読み書きそろばんに加えて、英語やコンピューターまでをも義務教育で教え込まないとどうにもならない時代が来てるのではないかという気がします。
 
 私は、小学校の1年、2年、3年、4年ぐらいの生徒には、お年を召されて、人生経験豊かで、人生甘いも辛いも酸いも全部分かって、「おまえはな、それはあかんで。」というように、しみじみと言える先生が担任させるとよい。5年、6年ぐらいになったら、新進気鋭の新しい知識を持った先生たちに教えてもらい、元気一杯体力もつけていくという指導がよいと思うのですが。
 
 これだけ国際的になってきたら、読み書きそろばんのほかにも英会話ができるようになる必要性を感じます。ある新聞によると、ノルウェーでは中学校の3年ぐらいでほとんど大学生なみの英会話をするそうです。大学生が分数わからないで、微分積分がわかるというこのバランスのとれないことを見ると、本当に義務教育というのはどうあるべきかと思いますが、私は不易と流行のバランスをとりながら進めていかなければという気がします。
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(教育は、損や得の問題ではない。小学校入学時、できなければいけない最低限のことについては親が責任を持つこと。)
【委員】  九九がわからなくても何も損はしないという発想が、戦後の教育の欠落点ではないかと思う。教育というものは、損や得の問題ではない。すぐ目についたことだけをやろうとしてしまう中学生や小学生が非常に多いです。それはやはり間違いであるということを、どこでどのように教えるかが、今後の教育の中で非常に大事なことと考えます。それが心の教育にも通じると思います。
 
 私は義務教育の危機を感じており、このままいくとそれこそ民間に委託したほうが効率的だという思いがある。だからこそ、今、義務教育を大事にしていかなければならないという思いを持っています。それは、教師の資質、力量という問題もあるけれども、義務教育を大事にしていかなければならない。
 
 小学校1年生での学級崩壊は教師の責任ではないと思います。そこまでの段階で、義務教育に耐えられない子供を育ててきたところに責任があると思います。例えば、小学校の1年生に入学するとき、これとこれとは最低限できなければならない。できなければ、親の責任だと言えるようにならないといけないと思うのですが、それが現実には言えない。全部ひっくるめて、教師がそれをしなければならない。親のできもしないことをひっくるめてしようとしても無理であると言えないところに、はがゆさを持っています。しかし、そうは言ってもなかなか理解してくれない社会というのがあるわけです。非常に極端な意見ですが、これからは小学校1年生では最低限この程度のしつけ、または育ちをさせて欲しいということを明確に示して、それに達していないのならば、もう1年後で入ってきても良いのではないかというぐらいの発想の転換をしないと、今の崩れた子供たちを正すことはできないのではないかと思います。
 
 目下、教育改革がどんどん進められているが、全国民がその趣旨を受け止めなければならない。家庭教育の回復、地域社会の教育力の回復ということに対しても県としての明確な指針を出し、県挙げて義務教育に本気で取り組まなければ、まさに義務教育の危機ではないかという思いを持っています。
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(今までの怠りは、小学校段階で与えられるべきものをしっかり与えてこなかったこと。人権と向き合う教育を確立させることが大事)
【委員】  義務教育を考えたとき、我々が怠ってきたことは、小学校段階で与えるべきものはしっかり与えるということで、指導要領の問題ではない。親も教師もそれを捨ててきたのではないか。そのことを省みないで自主性とか、学習に対して興味、関心と言っても、その興味、関心も子供の恣意的な感情に委ねてるから、例えば理数系が嫌いだということが出てくると思うのです。こういうことをしっかり押さえ直す必要があるのではないかと思います。
 先ほどジベタリアンの話が出たのですが、少し前までのウンコ座りというやつは、まだ行動の構えを持っていたと思うのですが、今のジベタリアンは完全な敗北宣言ですね。ベタッと座って、次の行動を考えていない。ということは意欲を持っていないわけです。こういった点についても、小さい頃から対処していく必要があるのではないか。ジベタリアンだって、本当に命と向き合う教育なり、しつけがあれば、ああいうふうにはならないと思うのです。そういうことも含めて、小学校段階、中学校段階の教育をどう考えていくのかということだと思います。
 
 来年度から新しい学習指導要領が出るのですが、どんどん教科内容を減らしてきた。そのまま文部省が押し通すかと思ったら、あちこちで学力低下の話が出てくると、おまけの授業をやり、その手引まで作ると。それだったら、初めからそんな学習指導要領を出すなということですが、そういうことも含めて、我々は、理想を持ちながらどう現実対応していくのかを考えなければいけない。生きる力もそうなのですが、基本的に人権とどう向き合うのか、自分自身の人権とどう向き合うのか、こういう点に力点を置いた教育の確立が大事ではないかと思っています。
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子供も母親もいろいろな環境の中で過ごしてきて、しつけができなくて当然だというところから入っていくべき。小さい子は、遊びの中でないと身につけられないものがある。)
【委員】  子供の意欲がない原因は、基本的な生活習慣をお母さんたちがつけていないことにあるというとらえ方をするのではなく、世の中全体がそんな基本的な生活習慣はもうどうでもいいという思う流れの中で、一番弱い就学前の子供たちにしわ寄せがいっているというとらえ方をすべきと思います。母親の意識がないとか、教師の意識がない、学校がどうだとかという以前に、今、基本的な学習を受ける、あるいは学ぼうという姿勢を子供たちに促すような社会になっているのかどうかというところまで返らなければならないのではないか。つまり、基本的な生活習慣を就学以前の保育園、幼稚園、あるいは家庭でつけてきたという前提で、小学校1年生をスタートすること自体おかしい。子供はいろいろな環境の中で生い立ちを過ごしているし、またその母親も高度成長化の中での時代のしわ寄せをくってきて子育てをしているのですから、できなくて当然だというところから入っていくべきだと私は思います。
 
 戦後と戦前の教育を考えてみるときに、口によくされることは、昔はよう遊べ、よう勉強せえ、よう寝ろ、よう食べろと言うてきた。でも、戦後になると「よう遊べ」は出てこない。もう、勉強せえ、勉強せえ、勉強せえしかない。大人が勉強せえと言っても、子供は勉強している振りを見せるだけで、本当は遊びたいのです。遊ぶ子は育つというように、遊びの中でないと小さい子供というのは、身につけられないものがあるということをもう一度、教師や大人が考え直さないと本当の意味での改革にはならないと思います。
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(教育は学校だけでなくて地域、社会、企業とも一緒に。企業も従業員が子供の教育のための時間が取れるように考え方を変えなければいけない。)
【委員】  少し違う視点なのですが、教育は学校だけでなくて地域とか社会と一緒にやらなければいけないという意見に皆さんなってこられたのは非常にいいことだと思います。東京の経済同友会の教育委員会というのが、昨年、我々経営者が教育現場に出向く活動をしました。学校に行って、子供たちに話をする、PTAの方と議論する、あるいは先生方と議論する、勉強会をやるといったことをやりました。いい経験だったので、これをさらに深めていこうということになりました。先だっての委員会で、これは東京でやっているだけでは点に終わってしまうので、全国の経済同友会に呼びかけて一緒に行動しようということになりました。従いまして、奈良にも同友会があると思いますので、一度コンタクトしていただくといいなと思います。実は、関西の学校からも東京の同友会に来てくれという話がもうありまして、私は今度、和歌山に行こうかと思っています。
 
 もう一つは、我々経営者は父親とか母親である従業員を抱えているわけですが、子供の教育のための時間が取れるように、我々がもう少し考え方を変えなければいけないのではないかという話もしております。
 
 最後に、教員の皆さんがレベルアップできるように、我々がもっと協力できることがあるのではないか。今も既に東京都の教員の方を我々の企業研修に受け入れていますが、これをさらに広く教師の皆さんが経験豊かになるように、もっと我々も協力しようとみんなで決めておりますので、奈良県で役に立つことがあれば言っていただければと思っております。
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(今やもう、高等学校、大学の一般教養程度までが基礎・基本。自分で書かせ、見させ、考えさせることを大事にすること。
【委員】  最後のほうに話のありました不易と流行というのは非常に大事な言葉だろうと思います。私は高等学校まで、あるいは大学の一般教養程度までが、もう今や基礎・基本ではないかという感じがします。先ほど話題になっていました九九の問題ですが、インドでは19掛ける19まで暗算でやる。それが現在のインドのコンピューターの技術の高さを育てたという話も聞きます。やはり数の概念や数のルールといったものはきちっと身につけていかなければならない。
 
 さらに、時計でも数字がでるものよりも、やはり長針、短針のある文字盤を見て10分前であるとか15度の角度はどれくらいのものかをきちっと身につけていかなければならない。また、電卓をたたくよりも自分の手で文字を書かかせ、動く手、しっかりと物を見つめる鋭い目、そして考える頭、こういったものを大切にしていくことが学習活動ではないかと思います。今度は、電卓を使って計算させるというような教科書が出るようですが、繰り上がりや繰り下がりを自分で書いて勉強していくことが大事ではないかと思います。
 
 それからジベタリアンやウンチングスタイルの話が出ましたが、やっぱり子供に体力がないのです。朝礼にしましても倒れる生徒が多い。やはり毎日歩かせる。体育の授業でもすぐにプレイに入るのではなくて、トレーニングや徒手体操をやらせるという訓練が欠けているのではないか。これもやはり基礎・基本をつくる上で大事なことではないのかと思います。今後、義務教育については、そういう基礎・基本を大事にする教育を前進させていければと考えております。
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U 教育行政側からの説明(教育懇談会の意見・提言についての関連施策について)
 
(人間関係が希薄化しているからこそ、子供が人間関係を結んだり、命と向き合う場面を意図的に仕組んで自然に体験させる。親子の身体的な触れ合いや外遊びの機会を増やす。保育所、幼稚園、学校が子育て支援センターの役割を。)
【事務局】  まず家庭・地域の教育力についてですが、家庭や地域社会において人間関係が希薄化してきている。例えば、親、兄弟、友達あるいは近所の人々から、自然と学んできたことが今なくなってきている。あるいは、保護者、地域の方が自信を持って子供たちに指導をすることが少なくなっていることから、家庭や地域の教育力が低下をしているととらえています。
 現在、そういう中で、中学生に対して、職場体験やボランティア体験を推奨し、働く意義とか生き方を考える機会にしている取り組みもある。また幼稚園等で親子の触れ合いの共通体験をしているというのもあります。それから、保護者が保育を自分でやってみて体験するというのもあります。いろいろと体験をする中で、学校、家庭、地域社会が一体となって取り組みを進めています。今後、さらにそれを進めていくには、教育研究所等の実態調査等を活用しながら、子供が自然に体験できることをもっと意図的に仕組んでいく。例えば、人間関係を結んでいくような場面とか、命と向き合っていくような場面とかを作っていくことが求められているのではないかと考えています。
 
 次に、子供の成長発達を促すために求められることについて説明します。子供が地域の方々から、例えば紙すきや和太鼓、獅子舞などの伝統産業とか伝統文化を学んだり、あるいは昔の遊び道具を一緒に作って遊ばせてもらう体験活動も実施しております。
 また、先ほどからもジベタリアンの話がありましたが、生活が非常に利便化していることや外遊びが少なくなっていること等で子供の体力を低下させているというのも事実です。このことを保護者等に理解してもらい、親子の身体的な触れ合いや外遊びの機会を増やすという取り組みを進めているところです。
 今後、子育てというものは、子供と向き合っていかなければいけない。そのために、親子の絆を作っていくのだということを分かってもらう取り組みを、特に保育所、幼稚園、学校が子育て支援センターの役割を果たしながら進めていかなければならないと考えています。さらには、地域の人々に子供への関心を高めてもらうために、地域の施設、職場そして自然等を活用して子供と一緒にできる体験活動を進めていくことが求められていると考えています。
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(子育て支援を、啓発から実践へ。「我が家の子育てスローガン運動」、「家庭教育の日」、 「家庭教育推進週間」、「家庭教育の指導の手引」、「子育て企業フォーラム」、「幼稚園教育の充実をめざして」の策定、「杉の子テレフォン」と「いきいきテレフォン」の「あすなろダイヤル」への一本化、「預かり保育」の充実、等々の具体的施策で支援)
【事務局】 まず、しつけに関しての現在の取組状況でございますが、昨年度は主に啓発活動を行いました。お手持ちのトライアングルの配付もその一つです。また、企業に出向いて行う子育て企業フォーラムを企業の力をお借りして開催いたしました。来年度は、啓発だけではなく、実践を伴うことも考えています。
 今後の方向としては、「我が家の子育てスローガン運動」の展開を計画しています。また、「家庭教育の日」を設定し、これが定着するように小学校、中学校、幼稚園、保育所や子供会等の団体とも連携して進めていきたいと思います。さらに、「家庭教育推進週間」を8月19日から25日の間に設定し、フェスティバルも実施したいと思っています。仮称ですが、「家庭教育の指導の手引」、これは小学校に上がるまでに、せめてこれだけのことはできて欲しいというものを示したいと思っています。
 5カ国の国際比較調査から見てもやはり日本の子供たちはしつけられていない。特に父親からはあまり言われていないという現状が示されています。ここから考えても、父親の役割というのは非常に大事になってくるかと思います。企業のお力を借りて、これからも「子育て企業フォーラム」に力を入れていきたいと思います。
 
 次に、母親への子育て支援について説明します。実態調査では、子育てで困ったときに相談する相手の1位は配偶者、2位は友達や近所の方、3位は身内の人、あるいは経験者、4位は保育所・幼稚園・学校の先生という結果が出ています。この現状から昨年の取組としては、幼稚園における子育て支援活動の推進に関する調査研究事業、預かり保育推進事業の地域指定、また幼稚園教育振興計画「幼稚園教育の充実をめざして」の策定、電話相談「杉の子テレフォン」、「いきいきテレフォン」等々で母親の支援をいたしました。
 本年は、子育てをバックアップする体制を充実させるために研究所の電話相談の一本化を図り、「あすなろダイヤル」として開設しています。4月18日現在で昼は181件の相談を、夜は47件の相談を受け昨年よりも非常に多くなっています。このようにしてバックアップしていきたいと考えております。
 
 次に、母親の不安定な状況についての説明をします。アンケート調査によると、身近に相談相手がなく自分で考えるという人は、子育てがあまり楽しくないという結果になっています。また、一番心配なのは、自分の子供がいじめに合わないかと非常に心配しておられる不安定な状況が見受けられました。ここで、私たちは子育てのバックアップ体制の充実として「預かり保育」の充実を考えていすが、子育てサポーターの養成を約30時間の計画で研究所にて行いたいと思います。市町村から推薦を受けた方をサポーターとして養成し、地域に帰っていただくというシステムを構築したいと考えています。
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V 意見交換(教育懇談会の意見・提言についての関連施策について)
 
(職場体験は学校側が求めるものと、職場側が求めているものの接点を事前打ち合わせしてこそ効果が上がる。働くのは、はたを楽にして、両親を楽にして、世の中に役立つために働く。)                    
【委員】 私、実は老人ホームをしていまして、体験授業ということで中学生がやって来ます。必ず学校の先生方が事前に来られて、ある程度の打ち合わせはするのですが、受け手の姿勢として大切なことは、ただ単なる職業体験をさせる場所を提供するという理解や協力ではなくて、学校教育の中で今こういうことを子供たちに学ばせるために体験学習をしたいということを事前打合せの中でよく聞き取っておくことです。職場体験に関わらせていただいて3年になりますが、1年目のときは、ただ来て、お年寄りと触れ合って、車いすを押して、園内を見てとかいう形ぐらいしかできませんでした。2年目のときから自分なりに割とうまくいったと思っているのですが、このような話を持ち出して先生と何回も話し合いをさせてもらったのです。だから、先生もただ単に体験をさせたらいいではなく、学校側が求めるものと職場側が期待することを事前の話し合いによってよくすり合わせておくことが大事ではないかと思います。
 この視点に立って、中学生が来たときに、働くことの意味を話したのを覚えています。「自分の小遣いのために来るのであればうちは来てもらわなくていい」というような話をしました。働くというのは、「はたを楽にして、両親を楽にして、世の中に役立つために働くのだ」と言ったのです。「今日ここにおられるお年寄りの方々は、そのようにずっと世の中に貢献されてこられた方であり、尊敬の念で接するように」という話をすれば、やはり2年目の子供からは活動中の目の輝きがうんと違いました。学校の方も骨身惜しまず、企業等とお話を十分にされたらどうかと強く感じましす。
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(ゴミを拾う、困っている人を助ける、箸を使う、これらは家庭の責任で教えるもの。)
【委員】 ある本で読んだことですが、アメリカと日本の子供それぞれに「公園にごみが落ちているのを見れば拾うことをあなたは誰から教わりましたか」と聞けば、アメリカの子は82%が両親から、日本の子は20%ぐらいが両親からと答えたそうです。さらに、困っている人に手を差しのべるということについても、両親からと答えたのはアメリカの場合は80%、日本の場合は20%ないそうです。これが現実で、やはり家庭の大きな問題ではないかと思います。
 
 私は教育委員として毎年小学校の給食を見に行きますが、子供たちは箸を使わないのです。案外スプーンが多いのです。日本の食文化の一番大事なお箸の使い方をどうして子供のときから教育しないのかと思いました。家庭でも最近はスプーン、ナイフ、フォークを使うのが多いですから、お箸を立派に使える子供が少ないなと思います。これもやはり親の責任ではないかと思います。お箸ぐらいは日本の食文化として、親がしっかり教えた方がよいと思います。
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(家庭・地域の教育力が弱い現状がある。子供が親に対して絶対的な信頼を置くだけの家庭に戻ること。)
【委員】  私、家庭や地域の教育力の弱さを感じています。といいますのは、子供会で子供のしつけをお願いしますと頼んでこられる親がおられるのです。「少し待ってくださいよ、子供会、頻繁に活動しても月に1回、少ないところなら3カ月に1回の活動の中でどうしてしつけができるのですか」と言わなければならない現状があります。何考えておられるかと思います。
 
 やはり、地域の教育力の必要性を感じる次のようなことがあります。ある観光客が子供に當麻寺どこか教えてくれないかと声をかえたところ、その子は非常に親切に教えてあげたらしいのです。その方は学校の先生を退職してあちこち見学に来られた方で、後からその子の学校へ手紙を出されたそうです。手紙を受け取られた校長先生は、これをみんなに紹介してよいのかどうか非常に迷われたそうです。どうしてかと言えば、一方ではみだりに知らない人と親しくしたり、口を聞いたりするなと言わなければならない現状があり、それで非常に困ったという話を聞きました。もし、地域の教育力が十分だったら、危険もうんと減り物騒な世の中がなくなるのではないかと思います。このような話しもあり、どうしても地域の教育力を高めなければならないと思います。
 
 子供の困ったこと等を親がこうしてほしいと言えば、みんな学校や教育行政のほうで引き受けてきたという経緯があるので、我々の子供会にまで生活習慣の指導がきてしまっているかと思います。だから、義務教育の中でその辺の考え方というのも改めるべきだと思います。例えば、学校の先生が教えたことと両親が教えたことが反対の場合、どっちを取るかとなれば、アメリカの子供はみんな親を取るそうです。やはり、親は子供にそれだけの教育力を持っていたいと思います。
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(場の提供によって、子育て不安やストレスを抱えた親を救える。しつけというものは、リハビリと同様に子供を自立させるためのもの。幼稚園・保育所での母親への支援策は行事化するということではなく、日常的な営みとして行うべきもの。)
【委員】  先ほどの教育施策の説明から、3つほど気付いたことを申し上げたいと思います。
 まず1点目は、「地域・家庭の教育力」と「母親の不安定な状況」という課題について今後取り組めることは、場の提供ということがあると思います。つまり、非常に子育て不安やストレスを抱えた方々が何かをしに行くというのではなくても、そこへ行けば同じような人がいるという場の提供という取り組みが今後やれるかと思うのです。ただ、その場の提供を行政が直接するか、ボランティアの方などを介してするかは選択の余地があると思いますが、それが一つ、考えられると思います。
 
 それから2点目に、「しつけ」についてです。しつけがうまくいかなくて非常に悩んだり、子供に強く当たる若い親も増えているわけです。しつけの意義に関わって確認しておきたいことは、しつけというのは確かに型にはめることではあるが、型はめ自体が目的ではなくて、その子が自立していくために是非やるべきものだということです。例えば、リハビリを考えればわかり易いと思います。リハビリをするというのは、基本的な生活習慣ができることによって、その人が自分でできる世界が広がっていくということなので、その辺のニュアンスを少し加えることで、しつけについての啓発等がし易くなるかと思います。
 
 それから最後に3点目ですが、「母親への子育て支援」についてです。幼稚園、保育所がかなり親への支援策を努力されている現状に私も日常触れます。ただ、これがイベント化というと言い過ぎなのですが、そうなるとその効果がいま一つ上がりにくくなる。親の状況が難しいから、親への支援を介して子供に戻っていくという発想を持たないと本当の支援にはならないように思うのですが、これはまだ幼稚園のほうの意識が必ずしもそうはなっていない。申し上げたいことは、幼稚園、保育所での母親への支援策というのを、いわゆる行事化するということではなく、日常の保育のとらえ方や取り組み方を転換するということも含めて考えることも必要ではないかということです。
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 W 専門調査部会の設置及び県民「5,000人アンケート」調査の実施について
  次のとおり決定された。   
 上 野 ひろ美 (うえのひろみ) 奈良教育大学 教授
 大 村 喬 一 (おおむらきょういち) 奈良大学 教授
部会長  杉 村    健 (すぎむらたけし) 京都学園大学 教授
 中 西 幸 雄 (なかにしゆきお) いじめ問題等連絡会議 代表
 前 原 金 一 (まえはらかねいち) 株式会社住友生命総合研究所 代表取締役社長


〔文責は奈良県教育懇談会事務局〕
 
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