深める 明治150年記念 奈良の近代化をささえた人々

明治150年記念講演会(第1回)

日 時
平成31年1月15日13:00~16:30
場 所
奈良県立橿原考古学研究所 講堂
出演者
帝京大学文学部長 筒井清忠氏
東京大学大学院法学政治学研究科教授 五百旗頭薫氏
首都大学東京法学部助教 佐々木雄一氏
日本学術振興会特別研究員 島田秀明氏

【基調講演1】「明治維新がその後の時代に与えたもの―その評価をめぐって」

帝京大学文学部長筒井清忠氏

1.明治維新における「顕彰」問題

明治維新がその後の時代に与えたものについて考える時、これまで顕彰された人々の成果や業績を振り返ると同時に、十分顕彰されていない人々についてもスポットを当てることがそれ以上に重要である。目に見える成果や業績と同時にその影や背後をも見るという複眼的視点は、ある意味では日本文化の特性ともいえ、それを奥深いものにしているともいえよう。ここでいう顕彰されていない人々とは、具体的には「非命の維新者」と「戊辰戦争の敗者」である。

2 「非命の維新者」-維新に貢献しつつ維新前に亡くなった人々

明治維新前に、維新につながる活動を行い犠牲者が出た事件としては、安政の大獄(1858年)・桜田門外の変(1860年)・東禅寺イギリス公使館襲撃(1861年)・坂下門外の変(1862年)・寺田屋事件(1862年)・天誅組(1863年)・但馬生野の変(1863年)・天狗党の乱(1864年)・池田屋事件(1864年)・蛤御門の変(1864年)・六角獄舎の斬罪(1864年)・長州征伐(1864年)などが挙げられる。これらの事件についての評価は今日色々あろうが、関与した者に対する戦前の公的認定・評価としては、明治維新後に恩典授与がなされたり(例えば天誅組の吉村寅太郎には正四位が贈位された)、靖国神社に合祀されたケースがあるものの、元勲たちの華やかさに比べる遙かに低く一部にとどまっている。また、社会的評価としては、戦前でも著名な人たちを除くと低く、現在ではなおさら低く、それらの者に対する関心はすっかり薄れてしまっているとさえいえよう。

3 「戊辰戦争の敗者」-「敗者」としての旧幕府側

戊辰戦争に敗れた旧幕府側から明治維新を見るという歴史観があり、それを「佐幕派史観」という。旧会津藩の人々を中心に明治期に反薩長藩閥政府の色彩も込められて広まり、大正期には時代小説の普及とともに普及し始め明治維新60年の昭和初期前後からとくに広まっていった。とくに第二次世界大戦に敗北した日本人は、敗北した旧幕府側の感情がよく理解でき感情移入がしやすくなったと見られている。1960年代以降反薩長的立場はかなり広汎化し、とくに近年は一部に大きく普及化しつつあるともいえよう。

4 結び

明治維新150年にあたり、薩長のメジャーな人物中心の顕彰に終わるのではなく、「非命の維新者」と「戊辰戦争の敗者」たちにも、それにふさわしい適正な評価をすることが必要である。弱者・敗者への悼みを表す行為こそ明治維新150年の記念としたいものである。

【基調講演2】「欧米への開国の意義」

東京大学大学院法学政治学研究科教授  五百旗頭薫氏

1 開国の実際

日本の地理的位置を客観的に見ると、ヨーロッパ(ロンドン)から経度で約140度離れ、アメリカ(ワシントンDC)からも約140度離れている。1853年のペリー来航は日本にとって脅威であったとされているが、日本の地理的位置にかんがみると「まだ余裕があった」と考えるのが妥当である。実際のところ、攘夷よりも、幕府による支配から王政復古へと、国内体制を大きく変える方を優先する余裕があった。このように、「危機はあるが、まだ余裕がある状態」の時には、危機に立ち向かうための基盤(源泉)をまず整備することが行われる。これを「源泉への遡行」と呼ぶことにする。

2 源泉への遡行

(1)明治期
欧米の脅威に対してはまだ余裕があると考えられており、軍事力の源泉すなわち経済力への遡行が行われた。例えば、1873年の明治六年の政変では、大久保利通が殖産興業による経済的基盤の強化を唱えた。そしてさらに、木戸孝允は経済力の源泉すなわち立憲制に遡行し、国民教育の重要性を説き立憲制の確立を目指した。以上をまとめると、軍事→経済→立憲制と遡行したことになる。このように、明治期には、「危機に対応するためにはステップを踏めばよく、一挙に解決する必要はない」という発想があった。
(2)第1次世界大戦時
「源泉への遡行」は第1次世界大戦時にも行われた。強大な軍事力のぶつかり合いを目のあたりにした日本は軍事力を支える経済的基盤を整備し、さらに経済力の源泉には健全な国民が必要ということで社会(あるいは教育)についての議論が活発になった。そこでは、軍事→経済→社会という遡行が見られた。
(3)第2次世界大戦後
「源泉への遡行」は戦後に復活した。すなわち、米ソ冷戦がはじまっていた中で、吉田茂は安全保障を米国に委ね、経済成長を重視したのである。

3 結び

このように、明治期に行われた「源泉への遡行」は、その後の時代にも繰り返し行われており、日本の近現代史を考察するうえで重要な視点であるといえよう。また、古代の日本においても、例えば白村江の戦いのような危機が存在したが、その際にも「源泉への遡行」が行われていたのか、興味深いところである。

【パネルディスカッション】「明治維新・明治時代から得られるもの」

◆島田氏(幕末開国と尊皇攘夷について)
日本学術振興会特別研究員 島田秀明氏
内容
  • 1 平田国学について
  • 2 後期水戸学について
  • 3 小括

「明治維新をもたらした尊王攘夷思想の源泉が平田国学と後期水戸学であった」というかつての通念は、今日ほとんど支持されていない。「維新の思想」を尊王攘夷という最も意味の希薄なレッテルに求めることも、その源流を水戸学と平田国学とに求めることも、大いに疑問だからである。また、そもそも、明示的に尊王を批判する勢力も、攘夷を標榜しない勢力もいないのだから、「尊王vs佐幕」「攘夷vs開国」という図式自体が適切ではない。政治的立場を問わず「対外的危機における自国の独立維持という課題」が存在することは強く意識されていたから、尊王攘夷とはその最大公約数的な表現として捉えるのが妥当である。

◆佐々木氏(明治維新の背景について)
首都大学東京法学部助教 佐々木雄一氏

明治維新の背景としては、「ペリー来航により国家独立の危機を感じた薩摩や長州の人たちが、危機に対処できない幕府を倒して天皇中心の新しい国家をつくった」と説明されるのが一般的である。しかし、下級武士(および武士に準ずる身分の人たち)に注目すると、江戸時代には戦いがなく働く場がなかった彼らは、ペリー来航による危機に「自分たちの働く場、生き甲斐」を見いだしたに違いない。そのような下級武士が幕末の動乱期に動いたというのが、明治維新の原動力であったといえる。このような視点からは、政治的な動き(薩長同盟を仲介)をする一方で、船に乗り(海援隊)、商売も行った坂本龍馬は、自分が能力を発揮できる場で能力を発揮し、自由を体現した人物として注目に値する。そして、龍馬の精神性に、野心と立身出世を望む気持ちを足し合わせたのが陸奥宗光であった。

◆五百旗頭氏(150年のとらえかた~2つの憲法~)
「73」
  • 1868 明治維新
  • 1941 日米開戦

} 73年

  • 1945 敗戦
  • 2018 現在

} 73年

「47」
  • 1889 明治憲法発布
  • 1936 二二六事件

} 47年

  • 1947 日本国憲法施行
  • 1994 政治改革※

} 47年

※小選挙区比例代表並立制の導入

明治150年のとらえかたとして、「73」と「47」という2つの数字をご紹介したい。

「73」について。これは、現在(2018年)において、戦前と戦後が同じ長さになったということである。戦前について「戦後と同じ長さの時代があった」と考えて、戦前と戦後を同じ土俵に乗せて比較してみるのもおもしろい。

「47」について。明治憲法(ドイツ型の条文に基づいてイギリス型の運用をした)も日本国憲法(イギリス型の条文に基づいてアメリカ型の運用をした)もいわゆるハイブリッド型憲法であるという共通点があり、条文と運用が違うので柔軟性があった。運用がうまくいかなくなると、原理主義が出てくる点も共通しており、47年目に二二六事件と政治改革が起こった。

◆島田氏(平野國臣について
内容
  • 1 略歴
  • 2 古武士への憧憬
  • 3 武士たちの江戸時代
  • 4 生野の変へ

福岡藩士・平野國臣は、筒井報告のいう「非命の維新者」、佐々木報告にいう「生き甲斐」を求める「下級武士」の一例を示すものとして、すこぶる興味深い。彼は青年期から武家故実や過去の英雄の懸賞に取り組み、古武士への強い憧憬を抱いていた。そして、自らもそのような存在として生き、死ぬことのできる機会の到来として、幕末期の激動を受けとめた。敗死を恐れず、自己の名が歴史に刻まれることを夢見て生野の変へと突き進んだ平野国臣の生涯は、武士的アイデンティティの高揚が独特な歴史意識と結びつき、強烈な政治的実践を生み出した様をよく伝えているということができる。

◆佐々木氏(陸奥宗光と幕末大和)

陸奥宗光は天保15年(1844年)生まれ、紀州和歌山出身。安政4年(1857年)頃、大和五條の森鉄之助のもとで漢学を学ぶ。ちなみに森鉄之助の先生が谷三山(大和高市郡八木出身)であった。森鉄之助の門下には、後の天誅組の変に参加した乾十郎や井沢宜庵がいた。また、大和宇智郡御山村の豪農であった北厚治は、森鉄之助から学問を教わるなど親交を結んだ。さらに、本城久吉は入郷・五條時代の陸奥を経済的に支援していた。このように陸奥と幕末大和のかかわりをみていくと、陸奥が揺れ動く時世に即応する学問や姿勢を身につけた源泉は五條にあったことが分かる。それと同時に、学問を媒介として幕末大和の人物とのつながりが生まれたということもできる。

◆五百旗頭氏(明治日本 注目すべき人物)

ここでは大隈重信をとりあげたい。大隈は陸羯南が「其胆略よりするも識見よりするも天下晴れての大政治家」と評するほどの人物であったが、その野党の作り方には2つの特徴的な手法があった。すなわち、①「釣った魚にエサはやらない」(=自分の部下にしてしまうと、面倒は見ない)と、②「負け馬に乗る」である。この大隈の手法と同様のことが戦後政治においても行われたが、残念ながら戦後のリーダーたちはそのことを自覚していない。「歴史を繰り返すなら、歴史から学べ」ということが重要である。

◆島田氏(まとめ)

明治にスポットを当てると、その前後の時代が暗くなりがちである。すなわち、「江戸時代は停滞していて、大正・昭和は未熟なデモクラシーと戦争の時代であった」というように捉えられる。しかし、ひとつの時代を取り出してそこから学ぼうとするときに、前後の時代を暗くする必要はない。明治から学ぶことは重要であるが、だからといって江戸時代や大正・昭和を暗くする必要はないと考えている。

◆佐々木氏(まとめ)

明治から学ぶべきことは、民主主義の考え方である。民主主義は所与のものとしてではなく、それまで政治に参画できなかった大名や下級武士たちが「自分たちの声も聞いてくれ」と勝ち取ったものであった。現代において民主主義が危機に瀕していると言われることがあるが、明治期の「戦って勝ち取った民主主義」「自分たちが作り上げていく民主主義」という原点を、もう一度見直す必要がある。

◆五百旗頭氏(まとめ)

今回の私の話は、アイディアを次々と繰り出してしまった感があるが、書かれたものとしては2019年4月開講の放送大学「日本政治外交史」のテキスト(五百旗頭薫・奈良岡聰智/著)をご参照いただきたい。

◆筒井氏(総括)

明治について考えるときには、明治そのものについて考えるべきであり、前後の時代との関連ばかりで見てしまうと本質を見失う可能性がある。また、明治時代の人口は、江戸時代に引き続き武士でない階層につながる人々がなお圧倒的多数を占めていたので、そのような人々にとって明治維新・明治時代はどのようなものだったのか、という視点も大切である。そして、明治時代に、現代につながる民主主義・議会政治がつくられたということも、我々は思い起こさなければならない。