深める 江戸時代の奈良の殿様

江戸時代の奈良の殿様

高取藩と植村家

植村家は、戦国時代、氏義の時に、遠江国植村を根拠地とし、三河の松平氏(後の徳川氏)に仕えます。その子、植村新六郎氏明は、家康の祖父、松平清康、家康の父、松平広忠の2代に亘って近侍しますが、主君の暗殺の現場に2度も同席することになりました。このことで植村氏は松平氏にとって、縁起の悪い存在と印象づけられることになります。

さらに、氏明の後を継いだ家次も家康に仕えた時、嫡男信康に属したために信康自刃の後、追放され諸国を放浪します。その後、榊原康政の推挙で、帰り新参となりました。譜代としては、家康の時代よりも、ずっと古くから仕えた家にもかかわらず、徳川家の凶事に、必ず居合わせたことが理由だったのか、わずか5百石でした。

家次の嫡男、家政のとき、家康、秀忠に仕え、大坂の陣の功により千五百石となり、寛永2年(1625)、大番頭に進み徳川家光の下で、加増を続けます。

そして、ついに、寛永17年(1640)、大和高取城を給わり、2万5千石を領する、初代藩主となりました。家光への忠勤と、父祖の功にたいする恩賞の薄さが家政に至って報われたのです。
以後、明治まで、14代、植村家が続きます。植村氏入部後、山上の高取城は日常生活が不便なため、藩主をはじめ家臣の屋敷が街道筋に移され、城下町として栄えました。

現在も、当時のメインストリート土佐街道沿いに、屋敷跡や町家が残っており、旧城下町の名残が感じられます。