歩く前に聞いておきたい基礎知識

記紀編

ずばり、『古事記』とは?

現存する最古の書物。ふつうは「こじき」ですが、「ふることぶみ」と読む説もあります。国土の創成神話から推古天皇までの3巻構成となっています。

なぜ作られたのですか?

『古事記』序文に編纂目的が記されています。
それによると、“諸家に伝わる記録や神話・伝承・歌謡に間違いが多く、虚偽も加わっている。天武天皇はこれら「邦家の経緯」(国家行政の根本組織)、「王化の鴻基」(天皇徳化の基本)である『帝紀』(皇室の記録)と『旧辞』(神話・伝承・歌謡)を考究して、正しいことを後世に伝えるよう命じた。これをもって編纂事業が始まった”とあります。

なぜ作られたのですか?

序文に記された人物は、稗田阿礼、太安萬侶、天武天皇、元明天皇です。

編纂はどうやって進められたのですか??

まず天武天皇は、側近で聡明な舎人(下級官人)の稗田阿礼に『帝紀』・『旧辞』を暗誦させたのですが、時間が経過しても未完成のままでした。
それを元明天皇が和銅4年(711)9月18日、阿礼が誦む勅語の『旧辞』の選録を太安万侶に命じ、翌年5年1月28日になって献上されたものです。
もっとも、古事記序文の評価をめぐっては、成立年次や信憑性をめぐって論議が続いています。
また稗田阿礼の暗誦も、文字化された資料の読み方について習熟する内容だったと推測されており、天武期段階である程度の編纂作業が行われていたのではないか、とする見方もあります。

『日本書紀』を一言でいうと?

最初につくられた勅撰(天皇の命令により撰ばれた)の史書。
神代と神武天皇から持統天皇11年(697)までを、本文30巻、系図1巻(現在、亡失)に記しています。

どうやって編纂されたのですか?

編纂開始については、自ら本書中に記されています。
『日本書紀』天武天皇10年(681)3月17日条に、天武天皇が川嶋皇子・忍壁皇子ら12人に『帝紀』と上古の諸事(旧辞と同義か)を記定(異説を検討して史実を確定して記録する)するように命じたことに始まるとあります。

いつごろ完成したのですか?

奈良時代です。
『続日本紀』養老4年(720)5月21日条にこれより先に舎人親王が勅(みことのり)を奉じて編修し、完成、奏上したと記されています。

編纂の方針などに特徴はありますか?

『古事記』の編纂作業との関係は不明な点が多いですが、『日本書紀』の編纂にあたっては、『帝紀』・『旧辞』、諸氏族の記録、寺院の縁起、中国史書、百済関係記録などが参考とされ、記事には漢籍による潤色も認められます。
『日本書紀』という名称ですが、『続日本紀』に「日本紀」と表記されることから、これが本来の名かとされる一方、中国史書には書紀の名称はみられません。
当時の「日本」として国威を示すためにも、紀伝体の「書」が求められたものであって、本来は「日本書」ではなかったかとする説もあって、定説をみません。

影で政治を動かしていたといわれる藤原不比等は、『日本書紀』の編纂にも関わっていたのですか?

初めての正史編纂、しかも国号「日本」を東アジア諸国のとりわけ唐に認めさせようとした時代であったことからも、奈良時代前期のトップの政治家である不比等の関与を想定したいところですが、考古学の方法でそれを直接、検討することはできません。

「記紀」に記されている内容は、どれくらい事実として確認されているのですか?

考古学の成果と「記紀」の記事を直接、比較できる事例は稀です。
大きく報道された例をあげると、2010年9月に明日香村教育員会によって発掘調査された牽牛子塚古墳は、
・埋葬施設が合葬を意図した二部屋の構造をもつこと
・八角墳で畿内では7世紀代の天皇に限定的に採用された墳形とみられること
・7世紀後半に採用された石材(二上山産出の凝灰岩)による埋葬施設である
・7世紀後半に高位の人物に採用された棺(夾紵棺)があること

などといった発掘・調査成果と、
・『日本書紀』天智天皇6年(667)条に斉明天皇が妹の間人皇女(孝徳天皇皇后)と合葬されたという記事があること
・陵名が「小市岡上陵」(明日香村から高取町にかかる丘陵上)と記載される
・想定時期にはほかの有力候補者が見当たらないこと

などといった文献史料から、斉明陵であると考えます。ようやく考古学成果と「記紀」の記事内容がほぼ合致したといえます。それでも『続日本紀』(『日本書紀』につづく勅撰史書)文武天皇3年(699)条に斉明陵の改たな造営記事があって、これをどのように考えるか、問題が残ります。
牽牛子塚古墳の奈良県における最初の報告は1913年(大正2)ですので、およそ100年も前のこと。
被葬者がほぼ確定されるまで長い年月がかかりました。

「これを知っていると、ルートを歩くのが数倍楽しくなる」アドバイスがあれば教えて下さい。

「記紀」の記事内容に深く親しむには、『万葉集』はもとより、付近の遺跡(宮殿・古墳・寺院など)をあらかじめ知っておくとよいでしょう。
遺跡が発掘調査されている場合は、その情報も大切です。
なぜなら、すべての歴史が文字で表され、記録となるものでもなければ、遺跡として残り、発掘調査されているものでもないからです。

最後に、奈良にしかない「記紀」の魅力とは何でしょう?

「記紀」の編纂場所は奈良です。
例えば、天武天皇が『日本書紀』編纂を命じるために川嶋皇子らを召した宮殿(『日本書紀』には飛鳥浄御原宮の「大極殿」とある)そのものが発掘調査されており、高市郡明日香村岡に所在しています。
しかも、当時の景観(山や川、丘陵)が、都市化をまぬがれて保存されてきました。
宮殿は地下に埋もれていますが、それも悠久の時間経過を気付く仕掛けとなっています。
孝徳天皇の難波宮は大阪市街地、天智天皇の近江大津宮は大津市街地にあることを思うと、歴史に即した古代の「体感空間」が、奈良にはあります。
この恵まれた歴史資産を活かしていきたい。
「記紀」の記事はその入り口を示す道標となります。

万葉編

そもそも『万葉集』とは何でしょうか?

日本に現存する最古の歌集です。約1400年〜1300年くらい昔の歌が載っています。
全部で20巻あり、天皇や貴族だけでなく、兵士や農民まで、いろいろな人々が詠んだ歌が収められています。

全部でどれくらいの歌があるのですか?

約4,500首です。
『万葉集』には、奈良県内に政治や文化の中心地があった時代の歌が収められています。奈良の地名が詠みこまれた歌は、約900首とも。また、奈良県内で詠まれたと思われる歌をあわせると、大半が該当します。
まさしく、奈良は“万葉のふるさと”です。

『万葉集』をよむ楽しみとは?

『万葉集』には、季節(自然)、愛や恋、旅などをテーマにしたものから、笑いを誘う滑稽なものまで、実に多彩な歌があります。
その素朴で大らかな歌風は、現代に生きる私たちに親しみと共感を与えます。
人が抱く感情は、現代も1300年前も同じ。
社会通念や科学技術の発達具合こそ違いますが、「好き・嫌い」や「辛い・嬉しい」といったその気持ちの根っこは変わっていません。
そう考えると、これまでかけ離れた存在だった古代がとても身近に感じられ、生きるヒントを教えてもらうこともしばしばです。
『万葉集』は、私たちの普段の生活の中にも息づいています。
例えば、これまでただのバス停の名前だと思っていたところが、万葉歌に詠まれた地名であることを知って、「ここが、あの剣の池か!」などと驚くことも多々あります。
また、「ここを大伴家持が歩いたかも知れない」。そんなふうに想像を膨らませながら奈良を歩くと、楽しいですよ。
これまで気に留めなかった日常のディティールが“全く新しいもの”へと認識されてゆく。
それもまた、『万葉集』の魅力です。

古典が苦手です。取っ掛かりとなる、ユニークなものがあれば教えて下さい。

おすすめは「万葉仮名」です。
『万葉集』はまだ平仮名がない時代に書かれたので、漢字で表記されていました。
「万葉仮名」といって、漢字の音を仮名と同じようにして使っていたのですが、例えば「世の中」を「余能奈可」と書いていました。そして、この中から、今の平仮名が生まれています。
ではここで問題。「二八十一」と書いて、何と読むでしょう?
正解は、「にくく(憎く)」。「八十一」を掛け算で言い直すと「九×九」、つまり「くく」となるからです。
まるで、なぞなぞみたいですね。
県立万葉文化館には、これら万葉仮名をはじめ、楽しみながら万葉集を知ってもらう「万葉クイズ」を用意しています。
これをきっかけに、『万葉集』の世界に足を踏みいれたという方もいらっしゃいます。

「記紀歌謡」、「初期万葉」とは?『万葉集』とどう違うのですか?

このホームページでは、「記紀歌謡」と「初期万葉」を紹介しています。
「記紀歌謡」とは、『古事記』や『日本書紀』に採られた上代の歌謡のことで、物語の中にある歌です。
それだけに、「記紀」が記すエピソードごと味わう面白さがあります。
一方、「初期万葉」は文字通り、万葉集の中でも初期に作られた和歌のことで、歌自体が主役。
「記紀歌謡」とは逆に、想像を膨らませて読む楽しみがあります。
耳慣れた「5・7・5・7・7」の五七調の歌が多く、理解もしやすいかもしれません。

万葉歌碑は、歌が詠まれたところに立っているのですか?

必ずしも、「万葉歌碑のある場所=歌が詠まれた場所」というわけではありません。その地名が現在のどこにあたるのか、そもそも地名と確定できるのかなど、不明な場合もあります。
昭和のころ、奈良の豊かな自然を守ろうと、犬養孝氏をはじめとする景観保全運動が起こり、その一環として万葉歌碑が立てられることもあったようです。
これらの尽力があったおかげで、今も私たちは、昔ながらの美しい景観を目にすることができます。
万葉歌碑を見つけたら、当時の地元の方々の思いまでも味わう。そういった夢の追い方もあると思います。

万葉の世界に浸るためのアドバイスを。

その歌が詠まれた風景の中に身を置き、歌をよみ返すとよいでしょう。歌には、感情が投影されています。ある景色を詠んでいても、それはあくまでその万葉歌人が感じた情景。同じ景色でも、嬉しいときには風情があると感じ、辛いときには寂しく目に映ったに違いありません。
ウォークルートを歩く際は、そういった万葉歌人の“心の豊かさ”を、体全体で感じ取ってみてはいかがでしょうか。現代にも通用する、生きるヒントが見つかるかもしれません。