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高野山と熊野本宮、ふたつの聖地を結ぶ小辺路を行く

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文=吉田智彦

(よしだともひこ) 紀行ライター。旅を軸にした巡礼やアウトドア、民俗を描くフォトライター。スペインのサンティアゴ巡礼路、熊野古道などを踏破。著書に『熊野古道巡礼』(東方出版)などがある。

熊野古道には、6つのルートがある。吉野と熊野本宮大社を結ぶ大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)、伊勢と新宮を結ぶ伊勢路(いせじ)、大阪と田辺を結ぶ紀伊路、田辺から内陸の本宮を結ぶ中辺路(なかへち)、海岸を伝って田辺と那智を結ぶ大辺路(おおへち)、そして高野山と本宮を結ぶ小辺路(こへち)だ。この巡礼路は、熊野三山(本宮・速玉・那智大社)と吉野山、高野山といった三つの異なる山岳霊場とそれらを結ぶ参詣道として、世界遺産にも登録されている。中でも距離が最も短いのが、名前の通り、小辺路(こへち)だ。

小辺路の全長は、約70キロ。修験道の行場である奥駈道を除けば、一番の険路でもある。江戸時代、松尾芭蕉と共に奥の細道を歩いた河合曾良が近畿を旅したときの日記「近畿巡遊日記」には、高野山の麓から歩きはじめ、小辺路をたどって、わずか3日で本宮へ到着したと記されている。しかし、大部分の現代人は、水が峰、伯母子岳、三浦峠、果無峠と1日にひとつずつ大きな峠を越えて、3泊4日で歩くことになる。


果無峠から見る熊野川

 

初日は高野山から大股の集落までの約17キロ。薄峠を越えると道は、御殿川が流れる谷底に降りて「馬殺し」と呼ばれた急な坂を登り、高野龍神スカイラインに出る。ここから林道をつないで大股に至るまで、約半分の行程が舗装路になるが、初日の足慣らしにはちょうどいい。スカイラインから林道へ入る分岐は、かつての大和と紀伊を分けた国境で、水ヶ峰集落の跡がある。防風林だった杉が大木になり、野草の合間に石垣を見つけることができる。明治時代には8軒もの宿があったそうだ。道標地蔵に導かれながら、ゆっくりと標高を下げて、大股の集落へと下りて行く。


大股集落

2日目は、三浦までの初日と同じ17キロ。一日かけて歩くにはさほど長い距離ではないが、600mの高低差を越えなければならない。大股の集落を出ると、昔の人はよくこんな道を作ったものだと感心するほどの急な坂になる。小辺路は、巡礼路である前に、集落と集落をつなぐ生活路だった。考えてみれば、傾斜もさることながら、石畳なんてツルツル滑って歩きづらい。今ならいろいろな技術でなだらかにするのだろうが、手作業で道を開いた昔は、最短で、いかに手間をかけずに崩れにくいルートを確保できるかがポイントだったのだろう。そう思えば、馬鹿みたいにまっすぐで急な尾根道も納得がいく。しかし、伯母子峠を越えてからの下りは、地盤がゆるく、崩れやすい道が続く。左手に続く谷は深いので注意して進もう。その分、美しい雑木の森をじっくりと楽しめる。

後半の3日目に入ると、そろそろ足が慣れてくるだろう。前日から見えていた、壁のように立ちはだかる三浦峠を登る。水場が少ないので、中腹に湧く三十丁の水はありがたい。峠からの下りに入るとブナやナラの森と岩盤から幹を立ちあげる樹木のトンネルを抜けて、豊かに変化する小辺路の自然を堪能できる。そして、西中からは宿のある十津川温泉まで国道425号線を約7キロひたすら歩くことになる。これも、現代の巡礼に課せられた修行と思って歩こう。西川が流れる谷の景色が美しい。

そして、4日目、最終日にして最大の難所、果無峠越えが始まる。とはいっても、尾根の上に佇む果無の美しい集落を抜け、西国三十三所観音霊場に倣った33体の観音石仏が沿道から励ましてくれる。下りになっても、手を着くような傾斜が続くが、木立がぽっかりと隙間を作って、熊野川の先に終着点の本宮の里を見せてくれる。多くの巡礼者がこの場所で喜びに心を湧き立たせたことだろう。

 

「右かうや」「左きみい寺」と刻まれた道標が立つ三軒茶屋跡で、小辺路は中辺路と合流。緩やかな坂道に石畳が続き、やがて、杉林の間から熊野本宮大社の社殿が現れる。鎌倉時代、自分の行いに疑問を抱いた一遍上人が「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、念仏札を配りなさい」と熊野権現から神託を受けた証誠(しょうじょう)殿が、今も静かに鎮座している。きらびやかな伽藍が並ぶ高野山とは違った、地から匂い立ち、いつの間にか呑みこまれているような熊野独特の精気を感じることができるだろう。

※この紀行文は2009年11月取材時に執筆したものです。諸般の事情で現在とはルート、スポットの様子が異なる場合がありますので、あらかじめご了承ください。