第1回奈良県教育懇談会討議の概要

◇日時   平成12年9月1日 14:00〜16:30

◇場所   奈良市法蓮町757−2「春日野荘」(天平の間)

開会あいさつ  【藤原教育長】

◇会長及び副会長選出等
  会長杉村 健(たけし)京都学園大学教授、奈良教育大学名誉教授
専門は教育心理学
  副会長中西 幸雄(ゆきお)いじめ問題等連絡会議代表

  1.  会長あいさつ
  2.  懇談会の運営について

◇発言のポイント

  I 意見交換
次回懇談会  平成12年11月7日(火)


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ご意見はこちらまで:somu-k@pref.nara.jp



◇議事概要

◇開会あいさつ

【藤原教育長】

 教育懇談会では、教育の原点を御議論していただきたい。まさに「教育とは何か」から御議論していただきたいという思いを込め、今年度からスタートする懇談会でございます。委員のご承諾、ご快諾いただきまして改めてお礼を申し上げたいと思います。

 国の方で教育改革国民会議、それから各府県でもいろいろな形での教育についての議論がなされております。私どもも、日々の施策としては教育についていろいろな取組みを進めている所ですけれど、その施策のやはり基本になる骨組みの所をきっちりと押さえながらやる必要があるだろうし、この部分をもっと県民の教育のために一つ力を入れていく、そんな分野もあるのではないだろうかとそういう意味で、基本を押さえなおかつ具体的な取組みに、この懇談会の御意見をいただきながら、教育の、ある意味では県の筋書きをきっちりと作っていきたい。

 教育問題には柿本知事も、とりわけこの教育懇談会については思い入れもございまして、その意を十分に体しながらこの懇談会の成果をしっかりと受け止めていきたいと思っています。

 少し時間をいただきまして、いま県で考えておりますことを、お話しさせていただきたいと思います。

 もう皆さま御存知のように本当に日本の社会全体が大変大きな変化・変動の中に在ります。これほど私どもが体感できるほどになるとは十年ほど前にはなかなか思わなかった。教育に起こっているいろいろな問題も社会あるいは経済に起こっている問題とやはり軌を一にするところが大きくあると思います。大きくはやはり日本の社会体制の変革の中にこの教育の改革も在るんだというふうに思っています。その中で、一つは、画一化とか中央集権と呼ばれてきた大きな流れに少し歯止めがかかって、画一化の弊害、中央集権の弊害、日本の社会をここまで育て上げるのに一定の成果を納めてきたことは間違いはありませんが、しかし次の21世紀に向けては違う仕組みを作ろうということだと思います。それが個性化とか、そして地方分権という言葉で具体的な取組みがされているというふうに感じます。教育の中には、その個性化には、多様性を生かすために文部省を初めとして出てきているゆとりある教育というような表現にも結びついているかと思います。そして、地方分権は言うまでもなく、地域の裁量あるいは学校長の権限の拡大と言うようなことが教育の中でも大きなうねりとして出てきていると思います。そういう意味では県、市町村、そして学校とそれぞれが主体的に、もちろん自己責任の元で判断をしていかなければならない分野が非常に大きくなっていると思います。

 もう一つは、大きく社会の中の動きとして、やはり国際化とか情報化と言われます新しい動きだと思います。最近そういう意味では、国際化とか情報化とか言うような名前をつけた学校がだいぶ増えてますけれども、もちろん情報がこれから教科になっていく、そんな時代状況にもなり、教科の中での検討もすすんでいるのは御存知の通りだと思います。そうした中で国際人をどのように育て上げていくかという中で議論の方向として徳育の話が出ているような気はいたします。国際人としての位置づけの中で徳育の教育なども出て来ている、これは新しい流れとしてやはり二つ目として大きな流れになるのではないかと認識しております。

 三つ目は、いじめ、不登校、中退、そして校内外の暴力とか学校内で起こっている諸問題がございます。御存知のように新聞紙上においても大きな話題を提供するという非常に残念な状況にあると思いますが、これはもちろん学校だけの問題ではなく、社会の一つの大きな断面としてこういう問題が生起しているのではないかと私自身は認識しています。そういう意味ではこの問題について、教育の視点で大きく言われているのが「こころの教育」という言葉で、いろいろな取組みをしようということが一つあると思います。そしてもう一つが学校と家庭とそして地域とがどのような形で連携しながら進めていくのか、そういう教育の広がり、それを求めているというのが背景になっていると思います。このように従来の反省、これから先の社会の動き、そして現実に起こっている子供達の取組んでいる問題、こういうことに対して大きな社会の流れとして教育が影響していると思っております。

 そういう中で私たちが社会全体の中の動向の中で地域としての教育をどう組み立てていくのか、地域の中には、活用すべき素材、人材があります。地域の風土があります。そういうものをしっかりと見つめた形で地域としての教育をそれぞれの地方分権の中でどう考えていくのか、ということは私たちはしっかり持たなくてはいけないというふうに認識をしております。

 それから、二つ目には、どうも教育の範疇は大変に広く大きくなってきている。学校教育だけではなく、学校外、地域、家庭というのがどういう形で全体の人間性ある子供を、あるいは一定の能力、学力をそれぞれ伸ばせる子供達を育てていくのかと言う意味では、学校教育を越えたところの範疇にあるのかもしれませんけれども、教育の範疇が広がってきていると、いうふうに見ていきたい。それにどのような形で地域全体として教育をしていくのかということも考えていかなければなりませんし、そういう意味では教育の範疇の広がりが地域的にも、そしてもちろん教育の内容がさらに広がってきているということです。私は、「公の心」を育てると言っており、特に社会性をつけるということをよく言ってますが、幅広い、社会性を持った子供達を育てるためにいったいどんなことを教えていくのかというようなことも考えていかなければならない。教える内容も広がっている。そういう意味では教育の縦と横の広がりを、しかも地域の、奈良県としての特色ある教育というのをどのように組み立てていくのかというのを、今、持っておかなくてはいけないというふうに認識しております。

 なお、具体的な話ですが、私どもは日々の教科の指導に力を入れておりますけれども、それ以外に特に三つほど、お話をしておきたいのです。一つは、2002年から、新しい学習指導要領に入ります。その中で、そこに組み込まれてきます総合的学習の充実定着にしっかり力を入れていきたい。これはいろいろな考え方がございますけれども、やはり子供達が自ら学んで自ら考えて主体的に判断できると、考えるということをとにかくやらせる、その訓練をしっかり学校教育の中で培っていけるようにしていきたい、そのベースになるのが総合的な学習の時間だと思っています。これはもう一つの側面として、学校の先生もこういう授業をするのは初めてですので、しかも一人二人という形でも複数でも授業なさるし内容は変わってくる、教科書はない、こういう意味では総合的な学習の定着を学校の中でしっかりやっていきたいという努力をしております。

 二つ目には体験学習に力を入れています。子供達に就業体験、生活体験、自然体験、基本的には社会体験、社会を学ばせたいという思いで私ども教育委員会としては考えておりますけれども、そういう体験学習を組織的にしかも継続して充実させるという意味で、少しやられている活動を県内に定着させていきたいということで多くの活動推進委員会の設立などに前向きに努力しているというのが二つ目でございます。

 三つ目には家庭教育に力を入れています。これは教育研究所にこの4月から家庭教育部という部を設置いたしました。組織だって部を作ったのは多分全国でも私どもだけだと思いますが、具体的には家庭教育学級あるいは企業の内部研修に家庭教育支援講師を派遣するなど具体的に学習機会を充実させていきたいこと、それからこれからもっと皆さま方の目に付かなければいけないんですけれども、今キャッチフレーズとか一言提言とか募集しておりますので、まもなく終わりますけれども、ポスターとかいろいろなチラシなど相当部分県民の皆さま方に直接目に触れるというような取組みを、もちろん相談業務なども含めながら家庭教育の充実に三つ目として力を入れてます。これは親の教育という視点で今力を入れているところです。こういうふうに日常の業務に加えて、総合的学習、体験学習、家庭教育にとりわけ県が力を入れているということをご紹介させていただきたいと思います。またいろいろな議論をいただくときの素材にしていただければと思います。

 あわせましてこの委員会と平行しながら、県立高校のあり方についての将来構想の具体的な検討を進めているところでございます。いろいろな意味で、こちらで、この教育懇談会でいただいた御意見を今、私どもが具体的に進めている施策、あるいはさらに新しい施策への助言、そして県立学校の在り方についての方向というようなことでご意見をいただいて、私どもも県の教育行政の充実に力を入れていきたいと思っております。今、県の教育委員会が考えている内容を先にお話申し上げまして、本当に忌憚のない、そして活発な御意見をいただいて私どももそれに応えるべく努力することを最初にお話申し上げまして、御挨拶にさせていただきます。よろしくお願いを申し上げます。

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◇会長あいさつ

 この懇談会は、教育の基本的なことがら、あるいは今後の教育の在り方、それを検討いたしまして、最終的には奈良県の教育を今後どうするかということをお考え願うことになっております。特に答申を出すことはないようでして、その都度、委員の方々の御発言を取り入れて施策に生かすようでございます。このような問題については教育長を初め教育委員会の方々、日夜ご尽力されていると伺っております。また、委員の皆さまは、それぞれ非常に豊富なご経験を持ち、また素晴らしい力をお持ちのことと思いますので、この懇談会が大変実りあるものになるのではないかと信じております。この懇談会の運営はフリートーキング方式ということでございますので、日頃教育について思っていること、感じていること、何でも結構でございます、自由に気軽に率直に語って頂けたら幸いかと思います。その際、できましたら、いわゆる教育行政だけを問題にするのではなくて、できるだけ、親子、教師、あるいは広く県民に語りかけるような内容をお考え願いたいと思います。そして、それによりまして教育に対する意識改革ができたらいいのではないか、あるいは意識改革を進めるようなメッセージを県民に送れるのではないかと、いうようなことを考えております。微力ではございますが、一生懸命尽くしたいと思いますので、どうぞ御協力のほどよろしくお願いいたします。

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◇懇談会の運営について
 次の事項について奈良県教育懇談会の総意により委員全員が合意した。
  1. 懇談会は各委員のフリートーキングで行う。
  2. 懇談会は非公開とする。
  3. 議事概要及び議事速報について
     懇談会の懇談内容・結果については議事概要を作成する。議事概要は、事務局が作成し、会長が確認する。また、議事概要では、委員等の発言者の氏名は記入しない。
     議事概要とは別に議事速報を作成する。議事速報は懇談会終了後すみやかに事務局が作成し、会長が確認する。議事速報は懇談会終了後その日の内に、会議資料等と共に報道資料として報道機関に提供する。報道機関の対応は、原則として事務局において行う。
  4. 情報公開請求があった場合、懇談会の議案、資料、議事概要、議事速報は、原則として全部開示とする。ただし、開示することにより懇談会の円滑な議事運営が損なわれるおそれがあると会長が認めたものは非開示とする。
  5. インターネットについて
     奈良県教育懇談会のホームページを設け、懇談会を開催する都度、その議事概要を登載する。インターネットでは、県民からの意見募集も行う。

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◇意見交換

【会長】

 一人5分以内を予定しておりますが、順次発言をしていただいて、時間がきましたら、そこで中断しまして、また次回にそこから続けて、やって行きたいと思いますのでよろしくお願いいたします。それでは5分ということでお願いいたします。

(知育に対し徳育・体育が劣る。スポーツマンシップに則った教育を)

【委員】  自分が子供の時、教育を受けてきた、そういったところを振り返ってみますと、現在の子供達と言いますか、少なくとも現在の若い人たちの受けている教育というのは知識という点においては、私どもが昔勉強した時代から比べると随分と立派に進んでいて、素晴らしいものがあるんじゃないかと思うんです。教育というのは知育、徳育、体育ということですが、この徳というものにつきましてはどうだろうか。私どもが小さい頃、いろいろと受けてきた教育からすると、この徳が大部欠けているんじゃないかと思うんです。また同時に、体育の体の方もですね、体は大きくなったんだけれども、ぶよぶよの体の子供達が結構多いんじゃないか、よく体力低下だとかいわれています。そういったことからすると、知育、徳育、体育というものを教育ということで私どもは結んできました。

 一つだけどうしても言いたいことはですね、今の教育では日本の国という問題に対しての意識というのが、果たしてどうなんだろう。日本の国を、皆、どう思っているんだろう。国際的な日本というものは随分馬鹿にされているんじゃないかと感じるのは、何かしら日本の教育が戦後骨抜きになったというような気がするわけです。非常に素晴らしい優れた教育を受けているわけですが、どうも日本の国としての教育というのが、果たして何だったのだろうかというようなことを感じるんです。世界地図をご覧になるとどなたもお分かりのように、日本は四方を海に囲まれていて、いわゆる外敵からどうこうされたということがない、極めて恵まれた条件の中にあります。そういう中で、日本民族の文化というものがずっと作られてきているけれども、そのことが幸せであったり、また逆にですね、今のようなグローバリゼーションの時代になってきたときに、非常に狭い日本だけの考え方になっており、世界の中の日本というようなことを考えにくいのです。日本というのはGDPでは確かに世界で1位か、2位かの素晴らしい国だけれども、どうもいろんな点で見ていくと、世界でもあまり上の方にランクされた国ではないのではないだろうかと思うんです。たまたま、ある人と話していたのですが、日本という国は外敵から侵されたことがない、国境がないだけに実際にいろいろな被害を受けずに自分たちだけの世界を築き上げることができたこと。ヨーロッパでも、その他の国々でも一歩踏み出せば、国境というようなものがあって、攻めたり攻められたり、犯されたり犯したり、いろいろな中で惨めな思いをしたり、あるいは優越感を感じたり、いろいろなことが民族の闘争の中にあると。日本は、第2次世界大戦に負けたときに無条件降伏した。無条件というのは全く条件なしに言われるままにいたしますというようなことで、負けてしまったのですけれども、ドイツは、第1次世界大戦も第2次世界大戦も負けているのですが、第2次世界大戦に負けたときの条件というのは、一つは憲法は自分たちで創る、一つは自分たちの国は自分たちで守る、もう一つは教育は自分たちのドイツの国でやる、ということを言ったらしいのですね、この三つの条件を付けて降伏しているらしいです。日本の場合は無条件で降伏しておりますから、憲法はアメリカにいろいろ教えていただいて作ったのか、日本が作ったのか、わからないですけども、本当に日本という国としての憲法であったのかどうなのか議論があります。それから二つ目は自衛隊問題、国を守るという問題ですね。未だにアメリカの安全保障というか、そういうものに頼っている。また三つ目はですね、教育は、アメリカの民主主義の教育を確かに受けてきたが、日本の文化というか、日本の良さ、日本の国としての教育というものが、どうも欠けているのではないかと思います。だから、極めて豊かな中で豊かに育っているし、日本は良い国だと思っているけれども、反面、日本の国に対する誇りだとか、あるいは国に対する信頼というようなものが果たしてあるのだろうか。奈良県としてのいろいろな教育を築き上げていくためには、奈良県として持っている文化、奈良県の大切なものを、しっかり身につけなければならない。と同時に日本人は日本人としてやっぱり持つべきものを持っておかなければいけないのではないかと切に言いたいわけです。

 その次に、スポーツの関係の話をします。スポーツマンシップには、三つの柱がありまして、一つはルールを守るということ、二つ目には相手を尊重する、三つ目には自分のその瞬間というのは二度とないわけだから、その瞬間に力一杯、自分の力を発揮してみるということ。簡単に言えばこの三つがスポーツマンシップということになるわけです。このことは、この日本の社会におけるとっても大事な問題に通じると考えるわけです。スポーツの良さをもっと子供達にも分かってもらって、ルールを守るということ、その次に他人を尊重するということ、もうひとつは自分の人生で大事なものに真剣に取り組むんだということ。こういう雰囲気のものを作りたいという意味でスポーツ振興論を持っているのです。そして、スポーツマンシップに則った教育というものを考えていきたいと思っています。

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(教育の前にまず生活習慣の確立。教員の資質の向上とゆとりを)

【委員】  私は、教育というのはその子供、一人の人間が生きていくための大きな力というか、糧というか、いわゆる生きる力となるというように常々考えているところです。教育の中で生きる力が一部分ではなしに、教育=生きる力というふうにとらえております。子供達の大きな理想とかは別としまして、日々の教育活動の中で子供達にどれほど力をつけてやれるか、これが私の頭から離れないことであります。といいますのは、校区の様子を見たり、親の家庭の様子を見たりしておりますと、学校で力をつけてやらないと、これはもうどうもできないと思うのであります。

 一生懸命勉強しなさい、本を読みなさいなどと百万遍言っても、できないような状況にあります。毎日学校に通う子供達、通わない子供達、そういう子供もおります。そういう子供達に生きる力をつける、生きる力=学力をつけていかなければと思います。学力というのはもちろん教科の学力もあるわけですが、日々の生活を普通に送れる、きちっとした生活習慣を確立してやれるような、そういう教育が一番だと思います。

 基礎・基本を大事にしましょうということでありますが、その基礎・基本の力を付けていくためには、まずそれ以前にある生活習慣の確立というところに、全力を挙げて取り組まなければなりません。子供達が強い心を持つ、大きな希望を持つ、目標を持つ、夢を持つ、そういう心の教育ができないものかと考え、多くの実践や、実際の活動をとおして、私どもの学校は取組んでいるところでございます。

 一人一人の子供が、本当に能力に応じた教育が受けられているのかというところへ目を向けてみますと、私はもっともっと考えていかなければならないものがあると感じるわけであります。子供達が落ち着いて学校生活を送りながら、自分のためだけではなしに、世のため人のために、自分が将来、素晴らしい社会を創っていく一員として頑張れるような、そういう人間に成長して欲しいと考えています。学歴というのは不要だと思いますけれども、学力というのを忘れてはいけないと思います。学歴の問題がでてきますと、何か勉強しなくても良いんじゃないかと捉えるわけであります。そういう意味で、私ども学校では読書に力を入れて、花を育て、そしてお互いに毎日の活動の中で子供達が支え合っていくような、そういう取組みをしているところです。読書を重視しておりますが、これは家ではなかなかできません。だから、学校で朝10分間、教師とともに本を読む時間をとっております。これは、全国的にどんどん広がりつつあるわけでありますけれど、私としてはこれを早く取り入れたのを自負しています。その後、毎月「今月の歌」というのを、みんなで立って、大きな声で歌う、そして、一日の授業に入っていくというスケジュールを組んでいるところです。

 もう一つ言わせてもらいますと、教員の資質の向上、これがなくてはならない。もっとも大事な教育の一つの要因であると捉えております。先生は朝から学校が始まりますと、なかなかゆとりがありません。ゆとりのある教育、ゆとりの中で豊かな心を育てる教育をしなければならないのですが、学校の課程、毎日の日課が分刻みになっております。その中でちょっとでも教員が心のゆとりを持てるような時間を作り、新たな気持ちで子供達と関わっていけることを目指してやっているところでございます。そういう意味では、やはり学校では教員を増やして欲しいというのが、私の願いです。

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(父親学、母親学が必要。親の力量不足を補う地域の力。学校からも地域へ啓発を)

【委員】  私は、少年非行との関連でふれてみたいと思います。非行に染まってもすぐに立ち直れる子供がいます。どうしてかなということをよく調べてみますと、親子のパイプがしっかりできている子供は、非行による親の心の痛みを自分の心が突き刺されたのと同じように感じ取れる、そんな子供でした。また家庭裁判所の調査官は、「親が変われば子供も変わる。」とよく言います。だから家庭裁判所でも子供よりも親に向けて密な接触を図って、親の姿勢を何とか良い方向へ誘導できないかと力を入れているとのことでした。そういったことで父親学、母親学といったものが必要ではないか。親子のパイプはいつから培われていくべきものか。幼い頃からも学校教育の中で親の目、子の目というような視点で、それぞれの立場、その中での思い、それを通じて親子の太いパイプが培われていく。そういった素地とは何なのか。それを見つめていく教育が、例えば家庭科の中でふれることが可能なのではないか。また親になりましても、PTA活動を通じて学校とともにそういった勉強会みたいなものを充実させていただくことも、ものすごく有意義ではないかと感じております。それから、私の子供の頃は、父親ないし母親としての力量が欠けたような場合でも、よその子供を叱る、叱れるというように、地域が親代わりとなってその家庭を支える、子供の養育を支える、そういったものがみられたように思います。地域ぐるみの教育力というのですか、そのことが地域ぐるみでの非行防止にもつながる。そういった点でも、地域に対する学校教育現場からの啓発活動も大事な事柄なのではないかなという思いをしております。

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(責任ある市民として自ら考え、行動できる女性の育成。他人を認める心の教育を)

【委員】  私たちの会では、21世紀を迎える前に新しい教育プログラムを作成しようということで、10年ほど前から検討を重ねてきました。そして、新しい教育プログラムを作成し、今年からその試行に入っています。私たちが目指すものは何だろうかということを考えた場合に、最終的には、自分自身と他の人々の幸福と平和のために責任ある市民として自ら考え、自ら行動できる女性を育成していこうということになりました。そして、自ら考え行動していく中で、そのプロセスを大切にしていこう、結果よりも子供達がどういうふうに自分で考えて選択してやっていくのか、その努力したところをみんなで評価をしてやろうということを特に強調して、指導者は取り組んでいくようにしております。自分自身と他の人々の幸福ということは、自分と同じ考えの人ばかりではない、自分とは違う意見の人のことも聴きましょう、自分も大切なら当然相手も一人の個人として大切であるという心の教育的なところ、それを非常に重要視しております。相手を理解することが国際理解にもつながる第一歩だと考えて、教育を続けております。

 私たちの活動の中でいろんな問題が起きたときに、お互いが悩んだり傷ついたりしながら女性も育ち、子供達もその中でいい大人に、いい指導者に巡り会います。そこで、家族以外にも自分のこと一緒に悩んでくれる人がいてる、そういう教育を大切にしていることが特徴であります。ある意味では男女共同参画社会といいますか、女性の社会進出と申しますか、そこのところで非常に評価されている部分じゃないかなと思うんです。

 一つ残念なことは、そういうプロセスの中で、非常に時間も大切にしますので、そういう煩わしいことは、「結構です、うちの子供そんなんやったら、親までがそこまでするならいいです。」と、せっかく子供達が一生懸命にやっているのに、親子が一緒に辞めていかれる方が非常に多く、会員減少で悩んでいます。この部分が、教育の問題にも関わってくるのではないかなと思っています。

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(真に子供につけたい力とは。自信が持てない子育ての克服。奈良県の高等教育も)

【委員】  まず最初に、現在の教育に対してどのように思っているかということを簡単に申し上げます。現在の教育でいろいろと提起されてくる一番の基は、経済界の要求に基づいたものが文教施策として非常に強力に降りてきていると思います。これは大きな世界政治、あるいは冷戦終結以降の経済戦略、経済競争ということで、日本の国力をかけてやってる部分があって、そういう意味で経済界の要求として教育への要求が具体的に降りてきているように思うわけです。そのこと自体の否定はしないんですが、それを私ども教育界がすぐストレートに教育課題に降ろすのではなくて、教育の独自の課題に絡ませて、どういうふうに教育施策として降ろしていくかが問題になります。

 例えば、経団連とか日経連とかが人材育成について最近矢継ぎ早に提言書を出しているのですが、教育界が出したと思われるほど非常に具体的なことを言っております。それは説得力のあるものなんだけれども、まず言いたいのは、経済界の要求からきている部分をそのまま教育界にストレートに持ってくるのではなくて、今の子供の現実なり、そこに絡めた形でどういうふうに教育課題として設定できるかということを考えないといけないのです。私は文部省と接触する機会が多いわけですが、文部省の文教政策担当者もほとんど経済界の方針と重なった指導をしております。そういう意味で、現状を捉えながら教育の課題としてどういうふうに置き換えるかということを私としては切実に考えたい。

 例えば、道徳の問題です。それは道徳豊かな心を思いやりというふうに言うんだけれども、経済界の言ってるのは、例えばアジアでの苦戦を非常によく言うわけです。人の気持ちが分からない、宗教がわからない、それから蔑視がある。これらは人権感覚の弱さに結びつくわけです。だから道徳というのも、いろんな文脈の中できちっと教育の課題に翻訳していくことが大切です。子供が忍耐力を失っている。それでは強制的に活動をさせろというところへ短絡させるのではなくて、今の子供達の育ち方の中でどういうコミュニケーションの図り方が可能なのか、それを私どもが作り出していくことができるのかというふうに、経済界の要求を教育課題に短絡させないで、教育課題としてももう一度翻訳し直すこと、そういうことを考えています。

 それから懇談会の論点ということについてですが、私は最終的に提言かなんかにまとまると思ったもんですからいろいろ考えたのですが、一応提案したいのは次の三点です。

 一点目は、やはり子供に付けたい力について議論がしたい。それについて今の私として考えていますことは、やはり学力を含めた生きる力というふうに考えたい。これは議論がいると思います。子供が切れ始めたときに何に腹が立つのか、何にむかつくのか表現できない、本人がわからない、それはやっぱり考える力等と非常に結びついているのではないかというふうに、10年ぐらい前から思っていたんです。つまり、ただ生きる力ではなくて、学力を含めた生きる力として考えたい。それから倫理観、道徳観も先ほど申し上げたように、単なる思いやりということでおさまるのではなくて、そこに人権感覚、国際理解あるいは交渉力、説得力というようなことを含めて考えてみたい。

 二点目に、大人の子育てに対する自信のなさというのがあると思うんです。それをどうすれば克服できるかというのを意見交換してみたい。親を含めてとなりましょうが、私は立場上、教師ないし保育者への期待としてやはりみなさん非常に自信がないんです。ありすぎて硬直化している部分もあるけれども、大きく言えばそれがない。それで子供や若者に遠慮する、甘やかす。結果としては敬意は払われていない。世代対立はあってもいいと思うので、価値観が多様化していく中で許容すべきものはなにか、守るべきものは何かということを少し話し合いたい。具体的なそのためのアイデアについてはそのときに申し上げます。

 それから三点目です。奈良県における高等教育の在り方等を最後の方にでも話し合っていただきたい。これは非常に広い意味なのですが、特色ある地域づくりと特色ある教育をどう結合させるかという論点にもなります。例えばベットタウンとして非常に住み心地がよいと、非常に住む人にさわやかさを与えながら、そこで生まれ育っていく者について、そこで生きていく見通しはどうなんでしょうか。これは産業界との関連もあるとは思うんですが、事前にお送りいただいた新総合計画などを見せていただいたら、遠い見通しではあるようなんです。一番積極的にやっているのは京都のコンソーシアムです。最初は大学連合でしたが、今はもう産業界と提携して京都をとにかく活力のある町にしていくというので高等教育を大きく巻き込んで街づくりとしてやっていく。奈良は非常に文化的に恵まれていると思うんです。文化遺産が恵まれているから取り立ててこのことをしなくても何とかなってきたけれども、それだけの遺産をもっと積極的に活用するという意味で、特色ある地域づくりと特色ある教育との結合が必要になります。いくつかあると思いますが、簡単に申し上げれば奈良は大学の進学率が非常に高い、今日お配りいただいた奈良県の教育で見ましても、全国平均を10パーセントほど上回って54パーセントほどが大学に進学しています。近畿各府県と比べても非常に高い。にもかかわらず地元の高校生の受け皿が非常に少ない、医大、商大のだいたい3割ぐらいが地元の学生で、それ以外はよそへ行くんです。特に男子学生の受け皿がないんですね。詳しいことは別にして、いわゆる地域づくり等の一環として文化都市、歴史都市として発展させるのに、そこの部分が一つの論点になればいいと考えております。

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(人間教育が最重要。時代変化に対応できる指導体制、学校教育が大事。)

【委員】  教育とは何なのか、という問いかけを我々にしていただいたわけですが、その問いかけに対して、今後深めていく形になるんでしょうけども、まず咄嗟に僕自身が思ったことを三つほど申し上げてみます。

 いま、教育の問題が新聞紙上もちろん、国レベルでも府県市町村でも随分話題にあがってきております。これはとってもいいことだと思うんですが、戦後教育現場におりました関係もありまして、やはり経済優先の趣は本当に強かったですね。今、教育が大事だと言うようにうごめいていることは、そういう意味では喜ばしいことだと思うんですね。人間が社会を形成していく上で、やはり人間教育という問題は最重要と考えてもいいんじゃないかと思うんですね。言い古された言葉だけども、「子育てに失敗すると家族がおかしくなる。」、「教育行政が教育の指針を誤ると国が乱れる。」という言葉もなるほどだと思うんです。そういう意味で、教育を大事に考えていくという動きは大変大切にしたいと思うんです。学校や先生の周りの見方もかつての尊敬の念が随分薄れていると思うんですね。そういうこともありまして、教育の力を広く各界、各層に取り上げていただきたいという思いが強いのです。

 二つ目としましては、やはり時代が大きく変化して参ります。この変貌ぶりには我々自身も対応できない状況を感じるわけですが、教育の場面では、そういう時代の流れの中で絶えず対応していく指導方針というか指導体制というんですか、これが大事だと思います。我々もその時代を読みとらなければよい作品が作れないし、作品を作ってもリアリティがないわけですから問題にされない。その時代の中で息づくという子育てが本当に大事ではないかという問題です。

 三つ目をあげると、子供達が多様化されてきた中で、個々の子供達を見つめることができる指導者、それから周りを含めた目が非常に必要になるということも強く感じております。

 その辺の三つを前置きにしておきたいと思いますが、やはり冒頭に申しましたように年を重ねて見えてくる部分がございます。振り返ることの必要性も随分ありますね。いま70歳に近くなって初めて知るということばかりです。生涯学習という言葉が日常化してしまったようにですね。その通りなんでしょうね。生涯にわたる学習だと思います。ところが、そうは言ってもやはり学校での教育が非常に大事ではないかと、その反面強く思っております。子供が初めて家族と出会い、そして世の中で周辺の人たちと出会っていくわけですけども、この世で最初に出合う熟練者は、先生であったり、学校という場であろうかと思うんです。このあたりが非常に大事な部分であるようでして、生涯勉強だから学校での勉強はその一部にすぎないという反面、初めて出会う出会いの場、熟練者との出会いの仕方が、随分と問題をはらませているような感じがいたします。木にたとえれば、根の部分に幼児教育があり、初等教育があり、その部分の非常にいい意味の教育が施されないと、後々問題が引いていくいうことの感じはもう鮮やかなものです。幹をたとえるならば、その後の義務教育になっていくんでしょう。先の枝が広がるのは、その後の大学教育や生涯学習が担っていくかと思いますが、その根のところの問題が大変重要であるということを、教育とは何なのかという問いかけに対する一つの提案として出しておきたいと思います。

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(理性的な議論ができる訓練を。日本の文化伝統を説明できない日本人。情報過多と考える力)

【委員】  日本の教育の基本的な欠陥があるんじゃないかと、私が常日頃思っています点を3つほど上げさせていただきたいと思います。

 まず第一は、理性的な議論ができないというところが非常に大きな弱点として浮かび上がってくるのではないのか。個人的な感情は説明はできても、論理的な説明ができない。ということは相手を説得できないということになるわけです。これはどうしてかと言いますと、後で専門家のお話を是非お伺いしたいのですが、外国語ができるできないとは関係ないのではないか、むしろ日本語能力の不足と訓練不足じゃないか。例えば日本の場合よく言うんですが、我々も会議の中で反対ということをはっきり言えない、もし言ったとすれば相手が個人攻撃を受けたとことになり、永久に仲が悪くなるという状況がよくあります。これは、小さい頃からそういう訓練を受けていないことが一つの大きな原因ではないのかと思います。欧米の小学校でよくやっているんですけども、例えば毎週月曜日はウィークエンドに何をしたかということを壇に立たせて二、三人にしゃべらせる、それに対してみんなが質問する。そのようなパブリックスピーキングといいますか、そういう話し方を小さい頃から練習する。作文も論理的な思考、表現を鍛える意味では絶対に必要であると思いますし、また異なった考えも、そういう見方もあるかと許容できるような教育がどうしても必要ではないだろうか。よく顔のない日本人と言われるのですが、これはやはり自己主張を持たないところに一番大きな原因があると思います。

 第二点は、私たちが外国に出ますと、いやでもおうでも日本人、顔見たらすぐ日本人なんですね。嫌だと言っていられない、毎日毎日が俺は日本人だと思って生活せざる得ない。そうすると他の外国人が納得する、あるいは尊敬するのは、日本的な見方というものを提供できるからなんですね。逆に言えば、日本の文化伝統について、基本的、基礎的な勉強ができていないのではないのか。日本という国は外から見ますと実は大変な国だと思います。何故かというと、わずか100年であっという間に近代国家になってしまった。アメリカの爆撃を受けて、戦後ゼロからスタートしたのにわずか40年ぐらいしかしないうちに、もはや世界第2の経済大国になった。これは他の国から見ると本当に驚異なんです。じゃ何故そうなったのか。特に、文化伝統を保持しながら、どうやって近代化したのかということを説明せよ言われて、きっちり説明できるだろうか。こういうところでも文化伝統をよく知らない。例えば、ある外国人に私の学生が「何故お盆休みはあるんだ」と尋ねられて説明できない、「何故正月休みはこんなに長いのか」と尋ねられても説明できない。そういう文化伝統について全くの白紙であるなら、日本人として本当に尊重されるだろうか。あるいは、もっと大きく言えば世界にどれだけ貢献できるのかという観点からすると非常に寂しいのではないだろうか。特に奈良は、日本が国家として出発したときの都でもあるわけです。その時から延々と現代に至るまで保持されてきた伝統を奈良に生まれた人たちに伝えていく、教えていくということが非常に大切なことではないだろうか。それがまた、奈良人の誇りともなることだろうと思います。現に奈良人は誇り高いと言うけれど、何をもって誇り高いとするかと外国人に問われても、その中身を本当に答えられるだろうか。実はなかなか難しいことでもあるわけです。極端に言えば、少なくとも相手にそれを伝える能力がなければ、そんな誇り、プライドも意味がないと思います。

 第三点はですね、いまグローバル社会と言います。グローバル社会とは情報過多の社会、情報がいやでもおうでもあちこちから入ってくる社会です。その情報全部が受け止められるだろうかといったら、絶対受け止められない。そうすると、個人のいわばプロテクションのために、そういう情報を聞き流すということが自然にできてしまう。特にテレビの影響が非常に大きい。いつか養老猛司さんの話を聴いていましたら、大学で私語が多い、先生が講義してるのに平気で出たり入ったりする、これは何だろうと考えてみたそうです。そして、これは先生もテレビの人物の一人だと思っているんじゃないか、だから平気な顔して出たり入ったりしてると。もしそうだとすれば、テレビの悪影響というのは本当に大きい。特に最近の若い学生を見ていてつくづく思うのは、無気力なんです。何かやってやろうとする意欲のある人が非常に少ない。何故少ないのかと考えてみると、受け身、受動的にそういう情報を受容し、特にテレビなんかの影響を受けているのですね。そのために批判力がなくなってしまう、考える力を失ってしまっている、というのが現状ではないだろうか。従って、教育とテレビとの関連などをもっとよく知る必要があるのではないか。これからおそらく、そういう情報過多の時代はますます激しさを増してくるだろう。そういう中で平気で子供に何時間でもテレビを見せていいんだろうか、ということまで含めて考える必要がある。私の記憶に誤りがなければ、今から20年くらい前にテレビが普及するとみんな考える力を失って、無気力人間になるよというような警報があちらこちらで出されたように思いますが、それ以来、全然そういうことを調査検討したものがない。これはテレビというものが、あるいはマスコミというものが如何に力が強いかということだろうと思います。このテレビと考える力、思考力との間の関連をもうちょっと調べて、必要に応じてテレビを制限する、特に小中学生には制限するということすら考えてもいいのではないかと思います。

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(先生・親が自分の体験を子どもたちに語る。国家というものをないがしろにしない。)

【委員】  私は、子供がおりまして、小中高大と、小学校で二回、中学校、高校、大学で二回それぞれPTA的なところに会長として参画しました。幼稚園で学級集会に出たことがあります。その時に箸の持ち方について、先生に教えてくれなければ困るというようなことをおっしゃる方がいて、みんな黙っておられたんですが、それは家庭の問題と違いますかと言ったようなことを覚えています。小学校に行きまして、そこで当時は父親参観というのがあったんですが、父親のない子供はどうするのかということで、日曜参観となりました。当時は、母親も父親もそれぞれ半々ぐらい出てきてましたけれど、役員を含めまして、今は、ほとんどが母親。PTAがそういう会員になってまいりました。私はこの場で申し上げたいのですが、家庭教育が一番大事と最近は考えております。家庭が大変な状態になっている、特に教育の場面では父親がだめになっている。そういうように思っております。

 一つの言葉を手がかりとしましょうか。草かんむりに父と書いて艾(もぐさ)、これは父親の厳しさ、草かんむりに母と書いて苺(いちご)、これは母親のやさしさ。そういうようなことを聞いたことがあります。いまの家庭では、それがまるっきり逆転しているようです。
 それから体験学習とかいろいろございますけども、体験を子供達にさせることは、社会教育でも大事ですけれども、先生や親が自分の体験や先祖の体験を子供達に語るということ、その場合に、失敗談や恥などを語ることから始めることが大切ではないか思います。私は、直接は学校教育に携わったことがないのですが、父親から勉強しろと言われたことはなかったです。ちょうど中学に行った頃だと思いますが、私の父が中学へやってほしいと親(私の祖父)に言ったけれども、自分の仕事の手すら休めないで、「うちらの家で中学行ったら人が笑う」と。父のきょうだいは六人、七人の多人数でしたが、そういうことを言ったということを父から聞いて非常に感銘を受けた。勉強させてもらえるということが有り難いことだなと思いましたし、現在もそのように思っております。教育の原点はやはりハングリーではないかと思っております。母親についてですが、室戸台風というのがありました。男は私一人でしたが、私を胸の下に置いて小屋へ入って、家が倒れてもこの子だけは助けて欲しいというようなことを神様に祈った。これは小学校の高学年の頃のことですが、母親から聴きました。そういうようなことが私の人格形成に随分と役立っているなと思ったわけであります。

 これから申し上げたいのは、国、国家、これが一番基本で、この辺のところをないがしろにして本来の教育はできないのではないかということです。「家庭が大事だ、最初の教師は親である」とクリントンが言っているようですが、ケネディが言いました「自分たちは国家に何ができるか」というようなことを考えていくことも大事ではないかと思います。苦労話とか失敗談、そういうものを語り継ぐ中で家庭を大切にして、そして教育がなされていくのではないだろうか。8月26日でしたが「朝までトーク」というのを見てまして、武見豊三さんとかいろいろな方が出ており良い勉強になったと思っています。この頃、公衆道徳という言葉がなくなりましたけれど、是非このあたりでもとに戻したい。しつけ、これも大事にしたい。

 この間送っていただきました資料で、中央教育審議会の中間報告のところを読ませていただきました。また今までの議論を聴かせていただいていても、それに対して私はそうは思わないということが一つもない。教育というのはもともとそういうものだと思いますけれども、先生が尊敬されていない、自信がなくなっている、親も自信がなくなっている。自信を取り戻すということが教育の基本ではないかと思っています。

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(過去の経験が役に立たない。大人が自分の思いを子どもに話しかける。)

【委員】  教育とは何かというよりも、何を教えたいかということで、私が思っていることをお話ししたいと思っています。
 私が小さい頃、父親や母親からいろいろなことをよく教えていただいた。父親が亡くなって10年以上になるのですが、父親と私の娘、孫がですね、畑で秋の頃、いっぱいなっている柿をとっているとき、父親が孫に「あの一番てっぺんの柿は鳥さんのものだから、あれだけは残してやろう」と話をし、孫は、そのことを未だに覚えております。また、父親が私に「ジャガイモを植えるときは、ジャガイモは彼岸まで土の中やで」ということを教えてくれましたし、母親は、ご飯を炊くときに、「初めちょろちょろ、中ぱっぱ、吹き始めたら火を引いて、赤子泣くとも蓋取ったらあかんねんで」と教えてくれたんです。

 ところが、私が父親と母親から教わってきたいろいろなことが、今の時代の中で、活きてはたらくことがどれだけあるのだろうか。特に、この激しい変化の中で私たちの過去の経験が本当に生きる力となっている場合がどれほどあるだろうか。例えば、中ぱっぱというようなご飯の炊き方でも、あれほどおいしいご飯を炊いていた母親が、電気釜を前にしてどれを押せばいいのかなと迷っている姿を見ますし、ジャガイモやその他の植物が、一年中とれるようになり、また、土のないところで育つものがたくさんできてきました。そうなると季節感というものは一つもない。あの柿は鳥さんのものやでと言っていた父親の言葉が、今では柿の上から網をかぶせなければ取られてしまう、すべて熟す前に柿が取られてしまうという状況に変わってきています。

 そんなことを考えながら、私たちは子供達に何を伝えればよいのかということを考えるとき、過去の経験が生きる力とはならないという状況の中で、生きる力とは未来を切り開く力なんだ、創造力なんだとしたときに、それを学校教育の中でどう伝えるのかということに非常に苦労しています。具体的には、学校行事は君たちの手でやるのだよということで、生徒たちで考えさせながら自分たちでやらせようとしていますし、授業の中でも、いろいろな工夫をして、そういう力をつけるようにしています。けれども、大学進学ということが目の前にぶら下がっている中で、すべての時間をそれに割くことはできない。やはり知識を無理矢理詰め込まなくてはならないという現実の中で苦慮しています。

 一方、先ほど言った優しさ、自然とともにあろうという気持ち、あるいはいろいろな経験を、いわば体で覚えることが伝統だとするならば、そのことを今の子供達にどのように教えようかという大変な課題も抱えているわけです。2年前に車椅子の生徒が卒業しまして大学へ通っているわけですが、その子供がうちの学校が良かったということで、今年4月に同じ地域から筋ジストロフィーの子供が入ってきました。その子供がいま少し体調を崩して学校に出てこられない状況ですが、その子供を中心に学級経営や学校経営をし、その体験を通して、優しさや関わり方を身につけるようにしています。特に関わり方については、本人がこれをして欲しいということ以外、進んで行ってはならない、何々して欲しいという要求がない限りそれをしてはいけない、お節介的な関わり合い方をしてはいけないというような工夫をしながら、正しい関わり合い方を模索しているところです。それをただ学級だけでなく、全校生徒のものにしていこうとしています。

 別の話ですが、私がある日道を歩いておりますと、うちの女生徒がタオルを首に、シャツを出して靴のかかとを踏みながら歩いていました。私はそれを見て、「あなたは何年何組の誰ですか」と尋ね、「私は、そのような格好は望ましくないと思う。」と言いましたら、すぐに直してくれました。その子供が家で話をしたんでしょう。後日、家庭懇談の日に、担任から母親がこの話をしたと聞きました。何か文句でも言っていたのかと心配したのですが、案に相違して「よくぞ私の娘を叱ってくださいました。」と母親が感謝の言葉を述べていたとのことでした。まだ、話をすれば伝わるということでございます。教育とは何かというよりも、「私はこう思う。」ということを話して伝えていく日々の努力が大切だと思います。

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◇次回懇談会について
(会長)
 約半分の委員の意見発表をしていただきました。次回のテーマについてですが、今日の内容を事務局と相談して、2・3のテーマを決めたいと思います。次回は、最初に本日の残りの委員の意見発表を行い、続いてテーマについての議論を行いたいと思います。
 次回の懇談会は、11月7日(火)です。

 

〔文責は奈良県教育懇談会事務局〕

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