守り神がとどまりし薬園の地

「じゅげむじゅげむ、ごこうのすりきれ、かいじゃりすいぎょの…」。子どもの頃、友達と競いながら夢中になって覚えた、この早口言葉。元は、「日本で最もめでたい名前」を赤ん坊に付けようとする落語の前座噺(「寿限無」)で、縁起のいい言葉を並び立てたもの。その中で出てくる「五劫のすり切れ」の「劫」とは、四十里立方の大岩に天女が3年に一度舞い降りて、羽衣で岩をひと撫でし、その大岩が擦り切れて無くなるまでの時のこと。五劫はそれを5回。まさに気の遠くなるような長い時間だ。


「五劫」を寺名に冠する五劫院は、東大寺のすぐ近く、北御門町にある。寺伝によれば、鎌倉時代、東大寺復興に尽力した重源上人が開山。宋に渡った重源が、浄土教高祖・善導大師(ぜんどうだいし)作の五劫思惟阿弥陀仏坐像(ごこうしゅいあみだぶつざぞう)を持ち帰って東大寺北門にお堂を建立し、本尊として祀ったのが始まりとされる。

五劫思惟阿弥陀仏坐像を拝すと、ひときわ目を引くのが、まるでヘルメットをかぶっているかのような大きな頭髪。今風に言えばアフロヘアーといったところ。これは阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩の時代、衆生を救おうと「五劫」もの間ひたすら思惟し、ついに菩薩から阿弥陀如来に生まれ変わった瞬間の姿。髪の毛が伸びて螺髪がうずたかく積み重なった頭髪は、その長い時間と難行を表している。なお、重源が請来したとされる五劫思惟阿弥陀仏は、東大寺勧進所にも安置されている。


本堂裏の墓地の北東隅には、高さ3m余りの五輪塔が建つ。江戸時代、東大寺復興に心血を注いだ公慶上人の墓である。1705年6月、大仏殿再建の山場を越えた公慶は、かつての重源に倣い、工事の成就祈願のため伊勢神宮に参拝。その後、江戸へと向かった。到着して間もなく、東大寺復興の大きな支援者だった将軍徳川綱吉の母・桂昌院が亡くなり、公慶は悲嘆に暮れる。そして7月12日、公慶はこれまでの積み重なった疲労もたたり、大仏殿完成を前にして、江戸で死を迎える。享年58歳。臨終には、奈良ゆかりの僧・護持院隆光(ごじいんりゅうこう)が立ち会った。8月11日、公慶の遺体は門弟たちによって奈良に運ばれ、東大寺の末寺で菩提所的性格を持つ五劫院に葬られた。


13歳のとき、雨ざらしの大仏さまを見て涙し、ひたすら東大寺復興に人生を捧げた公慶。その想いは、「衆生を救わん」と五劫もの間、頭髪を伸びるにまかせて瞑想し続けた五劫思惟阿弥陀仏のように、ひたむきで、ただただ、一途なものだった。

  • 思惟山(しゅいざん)五劫院(ごこういん)
  • 奈良市北御門町24
  • 0742-22-7694
  • 9:00~16:00
  • 志納
    ※五劫思惟阿弥陀仏坐像は8月1日~12日のみ特別公開