守り神がとどまりし薬園の地

そこかしこで目にする八幡神社は、日本人にとってなじみのある神社ではなかろうか。八幡宮とも呼ばれ、主に、神道において応神天皇の神霊とされる八幡神を祀っている。八幡神社は末社を含むと、全国で4万社以上あるともいわれ、大分県宇佐市にある宇佐八幡(正式には宇佐神宮)が総本社だ。 八幡神は、東大寺の大仏造立の際、その守護神として勧請され、はるばる北九州から奈良へとやって来られた。八幡神が遠出されるのはこれが初めてのこと。そのときの様子を、『続日本紀』はおよそ次のように伝えている。


―749年11月19日、大仏完成擁護の神託を奉じた八幡神は、宇佐から平城京へと向かった。同24日、孝謙天皇は石川朝臣年足(いしかわのあそんとしたり)、藤原朝臣魚名(うおな)等の重臣を迎神使として派遣。路次の諸国から兵士100人以上を出させて道中警護し、八幡神が通過する国では殺生を禁じた。また八幡神の入京に従う人への給仕には酒や肉を用いず、道路は掃き清められた。

大仏鋳造直後の12月18日、八幡神は平群郡(現在の大和郡山市南部)から入京する。平城京の南、梨原宮(なしはらのみや)において神殿を造って神宮とし、八幡神を迎え祀った。僧侶40人を招き、悔過の行を7日間行った。同27日、天皇の乗り物と同じ紫色の輿に乗った八幡神とお供の禰宜尼・大神朝臣杜女(おおみわのあそんもりめ)は、東大寺へ向かう。そして、大勢の僧侶や文武百官らが出迎える中、転害門をくぐった―。


入京する際、八幡神が立ち寄った「梨原」は、かつて広大な薬園があったとされる地だ。東大寺へと向かう際、八幡神の分霊をこの地の神殿にとどめて祀ったとされ、それが薬園八幡神社の創始といわれる。翌750年、今の同社御旅所の地である清澄荘薬園に遷座した後、1491年、郡山城築城に伴って現在の社地に移された。

薬園八幡神社のある一帯は奈良時代、「薬園の庄」とも呼ばれていた。その名残を偲ばせるかのように、八幡神がとどまりし古社には薬草が植えられ、今も緑の葉をそっと揺らしている。

  • 薬園八幡神社(やくおんはちまんじんじゃ)
  • 大和郡山市材木町32
  • 0743-53-1355
  • 自由