重要文化財 旧織田屋形大書院及び玄関(文華殿)

重要文化財 旧織田屋形大書院及び玄関について

 江戸時代に柳本藩織田家によって建てられた御殿で、もとは黒塚古墳の近くにある天理市立柳本小学校の敷地にありました。江戸時代の初め頃に建てられた御殿が焼失したため、天保7年(1836)から再建がすすめられ、天保15年(1844)3月6日に竣工しました。

明治に入ると、新政府によって旧御殿は民間に払い下げられることになりましたが、大書院と玄関は地元の方々の努力によって買い留められました。明治10年(1877)4月以降は大書院と玄関は柳本小学校の校舎として使用されました。

昭和に入ると、新校舎建設に伴い撤去されることとなり、大書院と玄関は橿原神宮に奉納されました。

 移築復原工事は昭和40年6月1日から解体工事に着手され、昭和42年3月31日に竣工しました。昭和42年6月15日付で重要文化財に指定され、指定名称は「旧織田屋形大書院及び玄関」となりました。橿原神宮では「文華殿」と呼んで披露宴会場や文化的行事に利用されています。


 修理は奈良県が橿原神宮より受託し、文化財保存事務所橿原神宮出張所が直営にて実施します。

橿原神宮HP

 

旧織田屋形

平面図1  平面図2

 大書院の平面は、対面のために用いられた上段・中段・下段の三室があり、下段からL字状に二室が続き、さらに来訪者の控室とみられる床の間を備えた勤(つとめ)の間が北に続きます。これは、寛永15年度の江戸城本丸御殿大広間(将軍に謁見する広間)の部屋のつながりと同じであることがわかります。さらに言えば、上段・中段・下段の床の高さを変える点でも一致しています。大書院にはかつて南東隅から南に延びる廊下状の付属屋「鉄砲の間」がありました。こうした突出部は「中門」と呼ばれ、寝殿造の玄関として用いられた廊下状建物の名残です。大書院には寝殿造にみられる蔀戸も用いられています。寝殿造以来の伝統を受け継いだ御殿建築であり、同様の江戸城本丸御殿大広間が失われた現在、それを偲ぶことができる唯一の建物です。

旧織田屋形の平面図の詳細

基本情報

指定概要(重要文化財 旧織田屋形大書院及び玄関)

○建立

・天保15年(1844)竣工

○構造

大書院 七畳半(床、棚、附書院付)、十畳、十五畳、九畳、十二畳、九畳(床付)、入側、縁等より成る、一重、入母屋造、桟瓦葺

玄関 二十畳(床付)、十二畳、八畳、六畳、入側、玄関式台、内玄関等より成る、一重、入母屋造、桟瓦葺

修理期間

 令和2年(2020)6月1日~令和8年(2026)3月31日

修理方針

 大書院、玄関とも屋根瓦にはズレ・破損等が見受けられ、軒先の部材にも雨漏りによる腐朽が見られます。壁は外壁の漆喰にカビが発生し、内部砂壁は水平材の変形によるチリ切れ、剥落が見られます。床は礎石の不同沈下によるものとみられる不陸が生じています。土間たたきの表面は酸性雨による塩の析出がみられます。

 軸部及び小屋組には目立った破損がみられないため、半解体修理によって不陸を解消することとし、地質調査および対策工法の検討、設計を行った上で必要があれば揚前工事、基礎工事を行います。また、屋根瓦の葺替え及び軒回り等木部の修理、壁の塗直し、破損および汚損した建具の修理、畳の表替えおよび新調もあわせて行います。                       

壁のカビ天井雨漏り

      外壁の漆喰のカビ               雨漏りによる腐朽

令和5年度の主な工事

ジャッキダウン工事

旧織田屋形の修理工事では、コンクリートの強固な基礎を作るため、いったん建物全体を1メートル上空にジャッキアップしていました。今回、基礎工事が終わったため、建物を下に戻す予定です(ジャッキダウン工事)。文化財建造物の修理では、元の部材をできるだけ再使用するという方針があります。そのため、もともと建物が乗っていた礎石についても、状態が悪いもの以外は元のまま使用する予定です。柱の底面には、礎石の形に合わせた加工がなされているので、建立時と同じ位置・高さ・傾きで礎石を据え付けないと、建物が不安定になってしまいます。今回の修理では、手製の測定器具を使って、建立時と同じ状態に礎石を設置し、建物を下に戻す予定です。

ジャッキダウン前

      ジャッキダウン前

 

令和4年度の主な工事

工事

旧織田屋形の修理工事では、礎石ごとに異なる沈みがみられたため、建物の床下全体に板状のコンクリート基礎を設置しました。また、コンクリート基礎の設置に伴い、礎石周辺の軟弱な土を取り除いたことで耐震性能も向上しています。基礎工事を行う場合、建物を解体してから実施する方法もありますが、旧織田屋形の場合は、基礎以外の木部はしっかりしているため、全体をジャッキアップして基礎工事を行うことになりました(「揚前工事(あげまえこうじ)」といいます)。揚前工事では、建物全体を同じ速度でジャッキアップしないと、建物にひずみが生じてしまいます。そのため、慎重に、4日間で1メートル揚げました。揚前工事は珍しいため、その様子を早送りで見ることができる動画をYouTubeに掲載しています。ぜひご覧ください。  

揚前工事

揚前工事の様子(動画はこちら(Youtube)

耐震補強

建物の耐震性能を上げるためには、できるだけ開口部を小さくして、補強材を入れる必要があります。指定文化財建造物では、建築基準法の適用が除外されていますが、人が出入りする建物については耐震性能を有していることが必要です。旧織田屋形は、橿原神宮の「文華殿」として結婚披露宴会場などに使われているため、橿原神宮としては、できるだけ周囲の庭園の眺望を妨げないようにしたいとのご意向がありました。そのため、新たに「ガラス耐震壁」を開発して耐震補強することになりました。これは、従来の耐震壁の代わりになる地震に耐える設計のガラスに木枠を廻したパネルを作り、開口部にはめるというものです。これにより、外光を取り入れ開放的な雰囲気を保ちながら、景観も損ねることなく耐震性能が向上します。

耐震1耐震

貝塚発見?

旧織田屋形の修理工事では、しっかりした基礎を設けるため、地面を掘り下げて、コンクリートの基礎を設けました。この過程で、地中から大量の貝殻が発見されました。貝塚なら大発見ですが、貝殻が見つかった場所は昭和15年まで民有地で、大正時代以降に貝殻からボタンを作る工場が建っていたらしく、ボタンに加工する部分をくり抜いたあと不用になった貝殻を埋めたようです。

貝塚

大発見!!とテンションが上がりました笑

調査

文化財建造物の修理工事では、必ず建物の調査を行います。調査によって、過去の建築様式や技法、修理の痕跡などが分かるため、非常に重要な作業となります。旧織田屋形では、表の玄関には非常に立派なケヤキの木が梁などに使われていることが分かりました。一方、普段人の目に触れない建物の裏側では、細い木が使われていることが分かりました。これは、織田信長の血筋を引く織田藩としての高い格式を示しつつ、できるだけ経済的な建物を建てようとした工夫だと思われます。その他、束石に古墳の石材を転用したことや玄関の後に大書院が建てられた事実も判明しました。

調査

 この程度なら県職員の技師も大工もひょいひょいと動けます

令和3年度の主な工事

素屋根建設

文化財建造物の工事を行う際には、まず建物全体を覆う仮設の屋根を建設します。これは、工事のために建物を守っている瓦などを外してしまうと、雨や風で建物が傷んでしまうおそれがあるからです。旧織田屋形大書院及び玄関がある敷地内には、日本庭園史学の基礎を築き、作庭家としても有名な森蘊(もりおさむ)氏が設計した美しい庭園があります。そのため、素屋根の建設にあたっては、庭園を壊さないようにする必要がありました。大型クレーンを庭園入口付近に設置して全体を組立てられるように施工手順を計画し、素屋根の構造に工夫を凝らして工事面積を小さくすることで、庭園を壊さずに、素屋根を建設することができました。

素屋根1素屋根2

建設中の素屋根と完成の写真

3D計測

文化財建造物の修理においては、最新の機器も使用しています。旧織田屋形の修理では、建物の形状と変形が複雑であることからそれらを正確にとらえるために、建物の3D測量を実施しました。3D測量には、調査時間の短縮、様々な角度から図面を作成できるといった利点があります。今回得られた建物のデータからは、建物の正確な高さや、本来真っ直ぐになっている瓦が、やや斜めに葺き上がっている列があることが判明しました。今後、修理工事の施工図作成に活用し、失われた接続建物の復原研究の基礎資料としても活用が期待されます。

計測3D01

3D02

3D03

計測している様子と3Dデータ