転害門

一条通りを東へ行くと転害門に突き当たる。ここからは、いよいよ東大寺旧境内だ。転害門は三間一戸八脚門の形式で、門の高さは基壇を除いて10m強。本瓦葺・切妻造の屋根で、その構えは実に雄大。中央の二柱には今も地元の川上町の有志らによって大注連縄がかけられる。

かつて平城左京一条大路に西面して建立された転害門は佐保路門とも呼ばれた。東大寺西面(東七坊大路)には3つの門が開かれていたが、このうち北の門である転害門だけが「治承の兵火」「永禄の兵火」、二度の兵火を免れた。修理を受けているが、奈良時代の東大寺伽藍を偲ばせる遺構として、今も堂々たる姿でたたずむ。

749年、聖武天皇は大仏建立の守り神として宇佐神宮(現在の大分県)から八幡神を勧請し東大寺の鎮守とした。その際、八幡神は一条通から、この転害門を通って東大寺に入ったといわれ、それが今も毎年10月5日に転害門を御旅所として行われる「転害会(てがいえ)」の由来となっている。

ところで、「てがいもん」は、「転害門」のほか「碾磑門」「手掻門」「手貝門」と表記されることもある。吉祥の位置(大仏殿の西北)にあり害を転ずる意から、付近に美しい碾磑(石臼)があったから、この門で行基が菩提僊那を手招きする様子が手で物を掻(か)くようだったから…等。数々の言い伝えが残り、どれも興味深いものばかりだ。

  • 奈良市雑司町
  • 見学自由
    ※基壇上への登壇および門の通り抜けはできません。
公慶堂

大仏池まで来ると、一気に視界が開ける。ここからの眺めは、南大門から大仏殿に至る定番ルートとはまたひと味違い、落ち着いた雰囲気が漂っている。大仏殿の西にある勧進所の中には、公慶堂が建つ。江戸時代、東大寺復興に生涯を捧げた公慶を祀る。

永禄の兵火」(1567年)の後、大仏の頭部や胴体は修理され、大仏殿には仮堂が建てられたが、1610年7月の大風によって仮堂が倒壊。13歳で東大寺大喜院(現龍松院)に入寺した公慶は、露座のまま雨に打たれている大仏を目にし、大仏殿の再建を決意したとされる。

公慶は1684年、復興のための勧進を始めるが、江戸幕府から許可はあったものの、協力や支援はなかった。公慶は、かつて鎌倉時代の大勧進・重源が使っていた勧進杓(しゃく)や鉦鼓(しょうこ)を手に、諸国を回る。志ある者はわずかな紙や金でいいので協力してほしいと「一紙半銭」の寄捨を訴えた。公慶の思いは民衆の心を動かす。

小さな寄進が積み重なって1691年、大仏の修復は完了する。1692年には大仏開眼供養会が行われ、公慶は7年ぶりに横になって眠った。「大仏の修復が成るまでは」と、それまでずっと座りながら寝ていたのだ。しかし休む間もなく、公慶は江戸へと向かう。次は大仏殿の再建だ。

その後、奈良ゆかりの僧、護持院隆光(ごじいんりゅうこう)のとりなしによって、将軍徳川綱吉やその母・桂昌院らを動かし、幕府から支援を受け、復興は進められた。なお、東大寺本坊にある天皇殿の各所に、徳川家の葵紋が見られるのは、ここがかつては東照宮であったからだ。

大仏殿の上棟にまでこぎつけた公慶は、幕府へのお礼のため江戸に赴く。しかし、旅先の江戸にて病死。1708年の大仏殿の完成を見ることはなかった。

公慶堂に祀られる公慶上人坐像は、東を向いて安置されている。完成した大仏殿を、公慶がいつも見ることができるようにと。

  • 東大寺境内
戒壇堂

戒壇とは、僧侶が守るべき規範である戒律を授ける場所をいう。聖武天皇が大仏造立の詔を出した頃、仏教の発展とともに僧侶の数が増えたが、規律の乱れが目立つようになった。本格的な戒律制度を整備することが求められ、そのためには、僧侶に正式な戒律を授けられる戒師の招請が必要とされていた。

遣唐使とともに日本から唐に渡った栄叡と普照は742年、戒律の僧として高名だった鑑真に来日を招請。鑑真は日本で正しい仏法を伝えようと渡航を決意するが、高波や暴風雨によって船が難破するなど、12年間に5度も失敗。来朝は難航を極め、その間に鑑真は失明する。そして753年、6度目にして、ついに悲願の来日を果たす。

翌年4月5日、大仏殿前に設けられた臨時の戒壇において、聖武太上天皇や光明皇太后、孝謙天皇をはじめ400人近くの僧が、鑑真によって戒を授けられた。その後、戒壇の土を移して、大仏殿の西に戒壇堂を建立。講堂や僧房などを備えた戒壇院となった。鑑真は唐律招提(後の唐招提寺)に移る759年までの5年間、この戒壇院の北側に建つ唐禅院に止住していた。戒壇院はその後、1180年の治承の兵火などによって、焼失と再建を繰り返す。今ある戒壇堂は、江戸時代に再建されたものだ。

  • 東大寺境内
  • 7:30~17:30(4月~9月)、7:30~17:00(10月)、8:00~16:30(11月~2月)、8:00~17:00(3月)
  • 大人500円
光明皇后歌碑

大仏殿の北西には歌碑があり、光明皇后の歌が刻まれる。

「わが背子(せこ)と 二人見ませば 幾許(いくばく)か この降る雪の 嬉しからまし」(万葉集 巻8-1658)

この一首は、聖武天皇に贈ったもの。奈良に初雪が降った。聖武天皇は行幸のためか、ここにはいない。愛する夫を想い、光明皇后は詠う。この降りしきる雪を二人で眺めたら、どれほど嬉しいことでしょう。

光明皇后の名は、安宿媛(あすかべひめ)。光明子(こうみょうし)。藤三娘(とうさんじょう)とも名乗った。701年、藤原不比等と県犬養三千代(橘三千代)の間に生まれた。16歳のとき、首皇子(おびとのみこ。後の聖武天皇)と結婚。729年、29歳で皇后となった。

光明皇后は仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の創建を聖武天皇に進言したともいわれる。その性格は慈悲深く、各地から薬草を集めた医療施設「施薬院」や、貧しい人や身寄りのない人のための救済施設「悲田院」を設けた。法華寺にて1000人もの人の垢を洗い流したとも伝わる。弱者に差し伸べたその手は温かく、慈愛に満ちていた。

  • 東大寺境内
  • 見学自由
正 倉 院

毎年秋になると奈良国立博物館で開かれる正倉院展を心待ちにしている方も多いのではなかろうか。整理済みのものだけでも約9000点にのぼるという国際色豊かな宝物を有し、「シルクロードの終着点」ともたとえられる正倉院宝庫は、大仏殿の北、講堂跡を少し歩いたところにある。

756年、聖武太上天皇が崩御する。その七七忌にあたり、光明皇后は天皇の冥福を祈念し、その遺愛品など六百数十点と薬物六十種を大仏に奉献した。皇后の奉献は前後5回に及び,その品々は東大寺の正倉(現在の正倉院宝庫)に収蔵し、永く保存されることとなった。正倉院宝物の起りである。

正倉院宝庫は遅くとも759年以前に建てられたものとみられている。1180年の治承の兵火、1567年の永禄の兵火など幾多の難に遭うも、大事には至らなかった。檜造り、単層、寄棟本瓦葺きで高床式。その頑丈な造りは、奈良時代の遺品たちを1200年以上も守り続け、当時の品格と美しさを保った姿を今に伝えてくれる。

  • 奈良市雑司町
  • 0742-26-2811(正倉院事務所)
  • 10:00~15:00
  • 土・日・祝日
  • 無料(外観のみ公開)
    ※工事に伴い、「正倉」外構の公開は平成23年9月1日から休止します。