公慶道

正倉院の正門から東に行くと、東大寺の塔頭の一つである龍松院がたたずむ。龍松院の前から大仏殿の北東角へと抜ける小道を公慶道と呼ぶ。

13歳で東大寺大喜院(現龍松院)に入寺し、雨ざらしの大仏を見て大仏殿の再建を決意した公慶だが、幕府の許可を得て勧進を開始したのは37歳になってからだった。勧進の多忙に伴って、穀屋(現・勧進所)に建てた寺に移り住むことになるが、それまでの20余年、公慶は大仏殿再建を胸に、朝夕この小道を行き来したという。

「大仏殿の再建」と文字で書くのはたやすいが、そこに費やされた労苦は、我々現代人の想像をはるかに超える。まずは資材の問題。あれだけ巨大な大仏殿を支えるには多くの大木が必要だ。奈良時代の創建のころは、奈良や名張の山中などから大木を調達することができた。しかし平安時代には畿内各地で寺社造営が行われ、近郊の大木の数多くが伐採される。公慶が再建を取り組んだ江戸時代ともなると、柱に使用できるような大木はほとんど残されていなかった。

とりわけ、巨大な屋根を支えるための虹梁を見つけるのは大変だった。長大な大木が必要となるが、近郊には見当たらない。ようやく見つけた大木は、当時の薩摩藩領、遠く離れた宮崎県の白鳥神社境内の赤松。『公慶上人年譜』によると、根掘りする前の高さが「十八丈」、つまり約54mもあったとされる。薩摩藩の協力を得、のべ10万人が90日かけて錦江湾へ陸路運搬し、その後、神戸まで海路7日。淀川・木津川をさかのぼり、平城山を越えて東大寺へ運び込まれたという。

公慶道の両側には立派な杉や桧がずらりと並ぶ。これらは大仏殿再建のとき、資材調達に苦労した公慶が「この先修復が必要になったとき、大木がなかったら困るに違いない」と後世を慮って植樹したものだ。

公慶道に参拝客の姿はなく、静謐に包まれている。そっと目を閉じ耳を澄ますと、朝もやの中を歩く公慶の足音が今にも聞こえてきそうだ。

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俊乗堂

南都八景をご存知だろうか。室町時代の禅僧、蔭涼軒真蘂(おんりょうけんしんずい)は日記『蔭涼軒日録』の中で、「東大寺の鐘」「春日野の鹿」「興福寺南円堂の藤」「猿沢池の月」「佐保川の蛍」「雲井坂の雨」「轟橋の旅人」「三笠山の雪」の八景を、奈良の風光明媚なものとして挙げている。

大仏殿の東側から、ねこ段と呼ばれる石段を上がると、眼前に「東大寺の鐘」、鐘楼が現れる。羽を広げたように四方に反り上がった屋根、がっしりとした支柱、内部に吊るされた大梵鐘。大寺にふさわしい堂々たる佇まいだ。

梵鐘は、奈良時代の大仏開眼供養会が行われた752年に鋳造されたもの。重さは26tを超える。平等院(京都)、園城寺(滋賀)と並んで日本三名鐘の一つであり、「奈良太郎」とも呼ばれる。鐘楼は鎌倉時代、重源に継いで大勧進となった栄西(ようさい)によって再建され、現在に至っている。

梵鐘は今も、毎夜初夜(午後8時)に撞かれており、遥か天平の音色を夜の境内に響かせている。

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鐘楼

鐘楼の西北には「俊乗堂」がある。堂内には国宝「重源上人坐像」が安置されている。

平安時代末期の1180年、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)の挙兵を機に、平清盛を中心とする平氏政権に対する抵抗が各地で起こる。興福寺・東大寺といった南都の寺院勢力もこれに応じた。12月には平重衡(たいらのしげひら)の軍勢との衝突により、大仏殿をはじめ東大寺の多くの伽藍は焼失。この「治承の兵火」によって、大仏の頭部は落ち、体は熱で溶けてしまった。翌年、東大寺を勧進によって復興するよう、後白河法皇の院宣が重源に下された。重源は、造東大寺大勧進に任ぜられる。このとき既に61歳だった。

「尺布寸鉄、一木半銭」、わずかなものでもいいから力を貸してほしいと訴え、各地を勧進。聖武天皇の創建の遺志を継ぎ、行基の先蹤を慕い、民衆の協力を仰いだ。重源の活発な勧進活動は、後白河法皇をはじめ、平氏との戦いに勝利した源頼朝の心までも動かし、大きな支援を得ることとなった。

大仏の修復が進み、1185年、開眼供養を迎える。供養当日、後白河法皇は周囲が止めるのを振り払い、大仏さまの前に設けられた板上によじ登って自ら開眼作法を行ったという。その後、重源はかつての入宋経験で得た宋風様式を取り入れて、「大仏様」という新たな建築様式を案出し、大仏殿を10年で再建。1195年、落慶供養会が執り行われた際、その功により、鑑真に贈られたと同じ「大和尚(だいわじょう)」の称号が与えられた。重源はその後も東大寺復興に心血を注いだが、1206年、自ら建てた浄土堂にて86歳の生涯を閉じた。なお、浄土堂は永禄の兵火で焼失してしまうが、かつて浄土堂があった場所に現在建っているのが俊乗堂である。

江戸復興の立役者である公慶は、重源が行った鎌倉復興を範とし、その精神を受け継いだ。この俊乗堂は、公慶が重源の遺徳を讃え、元禄年間に建立したものだ。

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行基堂

東大寺創建に深く関わった聖武天皇行基良弁、菩提僊那ら4人を四聖(ししょう)と呼ぶ。公慶は江戸復興の際、勧進帳の末尾に聖武天皇、行基、後白河法皇、源頼朝の名を記した。

俊乗堂のすぐ近くには、こぢんまりとした行基堂が建つ。かつては「俊乗上人坐像」を安置していたため、「俊乗堂」と称していたが、現在は、公慶上人の発願により造られはじめ、1728年に完成した「行基菩薩坐像」を安置する「行基堂」となっている。大仏創建に尽力した行基に対する畏敬の念が伝わってくるようだ。

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大湯屋

俊乗堂と行基堂の間にある道幅の狭い石段を下りていく。石段の数は全部で52段ある。これは菩薩が悟りに至る修行の階位に従ったもの。52位は悟りの最高位で、仏、仏陀、正覚がそれにあたる。52段といえば、猿沢池から興福寺に至る石段が有名だが、実は東大寺のこんな場所にも52段があったとは意外だ。

大湯屋とは風呂のことで、奈良時代の温室院がその前身。治承の兵火にて焼失するも、1239年に再建され、1408年には惣深が大改修を行った。さらに江戸復興の際には公慶が修復を行い、1704年、重源の五百年御遠忌法要にて施湯を行った。

大湯屋は、湯を沸かす釜場、湯を浴びる浴場、脱衣所である前室から成る。内部は非公開だが、重源が鋳物師草部是助(くさかべこれすけ)に作らせたとされる大きな鉄湯船が置かれ、別の釜で沸かした湯を運び入れて使用していたという。大湯屋は現存する日本最古の湯屋であり、僧侶だけでなく、施浴の折には、一般にも開放された。それは当時の人々にとって、心も体も癒される、憩いのひとときだったに違いない。

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