ひたむきな愛をささやく 平城宮跡・佐保川・ならまち
平城宮跡ルート
平城宮跡ルートマップ
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平城宮跡
平城宮跡
文庫1巻P207
あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり
青丹も美しい奈良の都は、咲きさかる花のかがやくように、今盛りである。
誰もが一度は耳にしたことがあろう、有名な歌の一つ。
「あをによし」とは、奈良を褒め称える言葉。
1300年前、この地に宮が置かれ、都として栄えた。
東を見れば、青々と茂る若草山。歩く地面の下には、当時の遺跡が眠る。
この華やかな歌は、奈良の都人が詠んだのかな。
さやか先生の「ここに注目」

小野老(おののおゆ)が、赴任先の大宰府(現在の福岡県太宰府市)から奈良の都を想って詠んだ歌。都の様子を最大級の褒め言葉で詠んでいます。奈良時代の大宰府は、平城京に次ぐ第2の規模でした。いわば、平城京のミニチュア版のようなもの。しかし役人たちは、もう二度と奈良に戻れないかもしれないという不安を抱いており、単に懐かしい気持ちだけで詠んだ歌ではありません。現代人にも通じる「離れたからこそわかる地元の良さ」を再確認したのかもしれませんね。
歌にある「薫(にお)ふ」は、ただ香るだけではなく、「美しく色が照り映え、輝いている」という意味も。花が真っ盛りで、生命力にあふれている様子を都のイメージに重ねています。

  • 奈良市佐紀町
  • 自由
長屋王邸宅跡
長屋王邸宅跡
文庫1巻P242
おおきみの みことかしこみ おおあらきの ときにはあらねど くもがくります
天皇の御命令を尊んで、殯の宮におまつりするはずではない時に、雲におかくれになった。
高市皇子の第1皇子として生まれた長屋王。高い位につき、政界を主導していたが、謀反の罪を着せられ、一族ともども自害に追い込まれた。
そんな長屋王の死を悼んで詠まれたのがこの歌だ。
高い地位にありながら、勢力争いに巻き込まれた「悲劇の王」。まだ亡くなるには早すぎると嘆き悲しんでいる。
『万葉集』には長屋王に向けた挽歌が他に4首残る。
さやか先生の「ここに注目」

天皇の住まいにより近い場所に住居を与えられるのは、位の高い者だけ。長屋王邸は、平城宮の東南に隣接していました。約6万㎡もの広さを誇り、住居部は、天皇の住居に準ずる広さでした。邸跡は、昭和61年から発掘調査が行われ、約4万点の木簡が出土。現在、邸跡には商業施設が立っています。南側の入口前には、発掘調査中の航空写真や復元図などが記された案内板があるので、ぜひ立ち止まって見てみては。

  • 奈良市二条大路南1-3-1
  • 自由
奈良市庁舎前庭
奈良市庁舎前庭
文庫3巻P298
あおによし ならのみやこに たなびける あまのしらくも みれどあかぬかも
青丹が美しい奈良の都の、天上にたなびく白雲はいつも見飽きないことだ。
「1.平城宮跡」の歌と同じく、奈良の都の素晴らしさを称える歌。
先の歌は大宰府から奈良を想って詠んでいるが、こちらは遣新羅使の一人が詠んだとされる。 遣新羅使とは、日本から新羅に派遣した使節団のこと。
大阪の難波津を出て新羅へ向かう船旅。先の不安を抱える旅の途中、奈良の美しい都を思い出したのだろう。
さやか先生の「ここに注目」

『万葉集』巻15の半分以上が、阿部継麻呂(あべのつぐまろ)を使節団代表とした遣新羅使らの歌で占められています。この歌もその中の一つ。
奈良市役所の1階には、平城京を1000分の1に縮小した復元模型が展示されています。平城宮跡から歩いてきた現代のこの景色に、遣新羅使が思い出したであろう美しい都の姿を、重ねてみてはいかがでしょう。

  • 奈良市二条大路南1-1-1
  • 自由
■歌の表記は『万葉集 全訳注原文付』(編者/中西進 発行/講談社)を参考にしました。
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