東塔跡

東大寺に塔があったことを知る人は少ない。しかし奈良時代、時の天皇によって創建された大寺だ。これほどの大伽藍に、塔が建てられなかったはずがない。

東大寺にはかつて、東塔と西塔という七重塔が並び建っていた。その高さたるや、実に100m近くあったとも。現在の大仏殿の高さは46.1mだから、そのほぼ2倍の塔が、驚いたことに2基建っていたのである。

東塔は753年〜764年ごろに完成したとみられる。しかし1180年、治承の兵火により焼失する。その後、1127年に再建されるも、1362年の落雷で再び焼け落ちてしまった。東塔跡には現在、土壇のみが残る。礎石は持ち去られてしまった。

東大寺は2010年、東塔再建に向けた発掘調査を数年内に開始すると発表した。将来、もし再建されることになったら、東塔はきっと、奈良の新たなシンボルになることだろう。

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東大寺東南院(現東大寺本坊)

東大寺は、その前身である金鐘寺において「華厳経」の研究が始められて以来、僧侶たちにとって仏教経典の研究の場であった。奈良時代、盛んに研究されたのは、華厳宗、三論宗(さんろんしゅう)、法相宗(ほっそうしゅう)、律宗(りつしゅう)、成実宗(じょうじつしゅう)、倶舎宗(くしゃしゅう)の6宗だったが、これらすべての研究を行っていたのは東大寺と大安寺のみ。それゆえ2寺は「六宗兼学の寺」とも呼ばれていた。

さらに東大寺は平安時代、空海を開祖とする真言宗と、最澄が唐より伝えた天台宗を加え、「八宗兼学(はっしゅうけんがく)の寺」と呼ばれるようになる。東南院は875年、空海の孫弟子である理源大師聖宝(りげんだいししょうぼう)が、大仏殿の東南の地に薬師堂を建立したのがその始まり。東大寺における三論宗の拠点として栄えた。しかし、1180年の治承の兵火によって焼失。1190年には後白河法皇によって再建されるも、1567年の永禄の兵火で再び灰燼に帰してしまう。東南院は、その後も再建・焼失を繰り返すが、1875年に寺内改革によって東大寺本坊と改称。以来、東大寺一山の寺務はここで執り行われることとなった。

東南院はかつて、天皇・上皇の御所となり、「南都御所」ともいわれた。鎌倉時代には後白河法皇や後醍醐天皇の行在所ともなっている。また大仏殿落慶法要会の際には、臨席した源頼朝が滞在したとされるなど、非常に由緒ある場所なのだ。

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東大寺南大門

修学旅行生や初めて東大寺を訪れる方は、まず南大門の大きさに驚かれることだろう。門の高さは基壇上25.46mもあり、近づくにつれ、仰ぎ見なければならないほど。長年の風雪に耐えてきた門は、色褪せて古色を帯び、静かな威厳を漂わせている。

南大門は奈良時代創建時に建てられたが、平安時代の大風で何度か倒壊。現在の南大門は鎌倉時代、重源によって再建されたもの。1199年に奈良時代の礎石の上に上棟、1203年には門内に安置する仁王像とともに竣工した。東大寺の大伽藍を守る仁王像こと「木造金剛力士立像(国宝)」は、門に向かって右に口を閉じて立つのが「吽形(うんぎょう)」、左に口を開いて立つのが「阿形(あぎょう)」である。わが国最大級の木彫像で、像高は8.4mもあるが、運慶ら20数名の仏師により、わずか69日間で作り上げられたという。今にも動き出しそうなその巨躯を見るにつけ、「よくぞこれだけの大傑作をそんな短期間で!」と驚かずにはいられない。

門内の石獅子(いしじし)もお忘れなく。仁王像に感動して、つい素通りしてしまいがちだが、こちらは宋人の石工に造らせたもの。石も中国から取り寄せられたものと伝わる。我が国で最も古い石造の狛犬とも。

さて、重源は南大門の再建にあたり、中国・宋から学んだ「大仏様(だいぶつよう)」を取り入れている。この建築様式は、貫(ぬき)といわれる水平方向の材を多用し、柱と強固に組み合わせることで構造を強化するという合理的なもの。天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾するなど、豪放な意匠を特徴とする。大仏様は鎌倉復興の際、大仏殿の再建にも用いられたが、こちらは江戸時代、1567年の永禄の兵火により焼失してしまった。この南大門は、大仏様を採用した建築の代表であるだけでなく、今はなき鎌倉再建大仏殿の威容をも偲ばせる貴重な建築なのだ。

永禄の兵火の際、三好三人衆と松永久秀、両軍による銃撃戦が南大門周辺で繰り広げられた。南大門の柱には、その際にできたと伝わる弾痕も残っている。また1989年に仁王像・吽形の解体修理が行われたが、そのときは吽形の左腕の中から弾丸が出てきた。

激動の時代をくぐり抜けてきた南大門。その姿は、ようやく安息についた老兵を思わせる。

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東大寺大仏殿

南大門から北に真っ直ぐ伸びる参道を歩き、右手に鏡池を見ながら中門へと。大仏殿を囲むようにめぐらされた回廊に沿って左へ行けば、入堂口だ。中に入ると、広々とした前庭とともに、世界最大級の木造建築、大仏殿が目に飛び込んでくる。

大仏殿は本尊の大仏を安置し、正式には東大寺金堂(こんどう)という。747年に起工され、5年後の752年には完成したとされる。大仏殿は、1180年の治承の兵火、1567年の永禄の兵火により2回焼失。鎌倉時代は重源、江戸時代は公慶らの働きによって、その都度再建されてきた。つまり現在の大仏殿は、奈良時代創建時、鎌倉復興時と経た江戸復興時(現大仏殿)の3代目ということだ。

創建時の大仏殿の規模は、正面11間(約88m)、奥行き約52m、高さ約47m。鎌倉復興時の大仏殿は、創建時とほぼ同規模だったが、大仏様が取り入れられた。しかし江戸復興時の大仏殿は、正面9間(約57m)、奥行き約50m、高さ約48mとなり、主に正面の規模が縮小された。これは江戸時代、再建のための資金や巨木などの資材が不足したため。現在の大仏殿は目をみはるほど大きいが、創建時や鎌倉復興時の正面はそれよりも1.5倍近く巨大だったのだから驚きだ。なお、大仏殿の中には、創建時の大伽藍や鎌倉再建大仏殿、江戸再建大仏殿(現大仏殿)の復元模型が並んで展示されている。それぞれの違いを見比べてみるのも面白い。

「早く大仏さまを」と、はやる気持ちを抑え、ぜひ八角燈籠(はっかくとうろう)をご覧あれ。奈良時代創建のもので、我が国最古最大の鋳銅製灯籠だ。そこには、音声菩薩(おんじょうぼさつ)の浮彫文様が描かれており、横笛、縦笛、笙(しょう)、銅拔子(どうばっし)をそれぞれ手に携える。灯籠をぐるり一周して、当時の工芸美術を間近で鑑賞したい。

「奈良の大仏」で知られる盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)は、高さ約15m、顔の幅約3.2m、手の大きさ約2.5m。何度見てもその存在に圧倒される。

聖武天皇は743年、政情不安を仏の力によって打開しようと、「大仏造立の詔」を紫香楽宮で出し、造立を開始するが、遷都でいったん中止となる。都が平城京に戻った745年より再開し、大仏鋳造は749年に完了した。

752年4月9日、大仏開眼供養会が盛大に執り行われる。開眼の筆を執ったのは、インド僧・菩提僊那。筆に結びつけられた約200mにも及ぶ縄を、聖武太上天皇や光明皇太后、孝謙天皇、文武百官、僧侶ら参集者が握りしめ、大仏に魂を入れた。供養会には、国内だけでなく、唐やベトナムの僧も参加し、国際色豊かなものだったという。

聖武天皇は「この盧舎那大仏が国中を照らし出し、平和な世の中をもたらしてくれますように」と痛切に願った。盧舎那大仏は、1180年の治承の兵火、1567年の永禄の兵火により損傷するが、そのたびに、重源や公慶らによって修復されてきた。奈良時代から始まり、平安、鎌倉、江戸時代、そして現代へと。とこしえに受け継がれた、あまたの人々の思いによって、大仏さまは今ここに在り続ける。

  • 東大寺境内
  • 7:30~17:30(4月~9月)、7:30~17:00(10月)、8:00~16:30(11月~2月)、8:00~17:00(3月)
  • 大人500円
西塔跡

西塔は、東塔と同じ頃に完成したとされる。934年の落雷で焼失。その後、復興が計画されるが、工事途上の1000年に再び焼失してしまい、以後再建されることはなかった。

東塔跡と同じく、西塔跡も現在は土壇のみが残る。かつてここに、高さ約100mもの西塔がそびえ、東塔とともに東大寺の大伽藍を形作っていたことを想像してみる。すると、これまで持っていたイメージを塗り替える、新しい東大寺の姿が目に浮かんでくるようだ。

  • 東大寺境内
  • 見学自由
奈良県庁屋上広場

東大寺境内を後にし、寧楽美術館を併設する依水園、知事公舎などを経て、奈良県庁へと向かう。県庁の屋上は、知る人ぞ知る絶好のビューポイント。遮るものがなく、奈良のまちを360度見渡せる。今日歩いてきたコースを振り返り、その感慨に耽ってみてはいかがだろう。

「あの建物にそんなエピソードがあったとは!」。

「公慶上人のファンになった。次の特別開扉は見逃せない」。

「今度は、仏像をじっくり見て回ろうか」。

「人の少ない早朝の境内を散策してみたい」。

「次の休みは、もう一度、東大寺に行こう」。


奈良は、歩いてこそ面白い。歴史を知れば、さらにその魅力は深まる。心地よい疲労感に包まれ、帰路につく頃にはきっと、貴方だけの東大寺が見つかっていることだろう。

  • 奈良市登大路町30
  • 0742-27-8406
  • 県庁開庁時間。ただし観光シーズンについては時間延長あり(※詳しくは奈良県のホームページ参照)http://www.pref.nara.jp/
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