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佐田束明神古墳 さだつかみょうじんこふん

記入年月日 2017/03/22

所在地
奈良県高市郡高取町大宇佐田字ヲヒラ742
区分
遺跡 | 古墳
指定内容

※各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください。

歴史文化資源の概要
大字佐田に所在する束明神古墳は7世紀末に築造された古墳時代終末期の古墳です。丘陵尾根を大きく造成して1辺60mの平坦面を作り、その中央に1辺36mを測る墳丘を版築と呼ばれる工法で築き、墳丘内は1辺60㎝を測る凝灰岩のブロックを唐尺の黄金分割で組み合わせた石槨を構築しています。古墳から棺金具と鉄釘、須恵器・土師器、漆片、歯牙等が出土しました。漆の残片から木棺は漆塗り棺と考えられ、歯牙の鑑定から被葬者は青年の男子と推定されています。これらのことから、束明神古墳の被葬者は、天武天皇と持統天皇の間に生まれた皇太子の草壁皇子であると有力視されています。
地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由
佐田束明神古墳の横口式石槨は他に類を見ない構造であり、終末期古墳として大変貴重である。
「記紀・万葉集」との関連とその概要
日本書紀・続日本紀の文献中、草壁皇子については、持統天皇3年(689年)に死亡記事が見られます。また、文武天皇(子、軽皇子)や聖武天皇(孫)を出したことから、天平宝宇2年(758年)に岡宮天皇と云う称号を頂いたという記事があります。さらに、天平神護元年(765年)に、称徳天皇が紀伊国行幸の途中に古墳を過ぎる時に下馬し遥拝していることなど記されています。草壁皇子が亡くなった時、宮廷歌人であった柿本人麻呂らは皇子の死を悼たみ、真弓丘、佐田丘の地名が含まれた挽歌を詠みました。その多くは万葉集に収められています。
当資源と関連する歴史上の人物とその概要
草壁皇子は飛鳥時代の悲運の皇太子で、父は天武天皇、母は持統天皇です。天武天皇の第2皇子でしたが、第1皇子の大津皇子の謀反後、皇太子になりました。天武天皇の崩御後、父を継いで天皇になることが有望視されていましたが、28歳の若さで急逝しました。母の持統天皇の悲しみは大きいものでした。
当資源と関連する文献史料
日本書記、続日本紀、万葉集
当資源と関連する伝承
明治政府による岡宮天皇(草壁皇子)御陵指定時に地元村民の立ち退きを恐れ、一部が破壊された。
他地域の関連する歴史文化資源
橿原市の橿原考古学研究所附属博物館に束明神古墳の復元石槨がある。
問い合わせ先
高取町 教育委員会 
電話番号
0744-52-3715

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見解・学説等の相違については、ご了承ください。