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松永久秀墓(所在:達磨寺) まつながひさひではか

記入年月日 2016/06/30

松永久秀墓
所在地
奈良県北葛城郡王寺町本町2丁目1番40号
区分
遺跡 | その他
指定内容

※各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください。

歴史文化資源の概要
 達磨寺本堂の西側にあり、高さ50cmほどの無縫塔が建てられています。「松永弾正久秀墓/天正五年十月十日」との銘文があると伝えられていますが、現状では確認できません。達磨寺所蔵の「達磨寺略記」によれば、天正5年10月10日に信貴山城が没落して久秀が自害した際、筒井氏がその亡骸をここに斂葬したといいます。寛政3年(1791年)『大和名所図会』の達磨寺の挿絵にも松永墓が描かれていますが、ここでは宝篋印塔形に描かれていて、現在の無縫塔との関係は定かではありません。
地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由
 達磨寺は松永久秀に焼かれたにもかかわらず、墓所を設けて弔っています。
「記紀・万葉集」との関連とその概要
 『日本書紀』推古天皇21年(613年)12月条に、聖徳太子が飢人と出会い、助け、埋葬したところ、その飢人の遺体が消えてなくなったとされる飢人伝説があります。のちに飢人が達磨大師の化身とされて達磨寺が開基されました。
当資源と関連する歴史上の人物とその概要
 松永久秀。三好長慶の家臣として頭角を現し、最終的には織田信長を裏切り、信貴山城を攻められて自害しました。東大寺をはじめ多くの寺社を焼いたとされ、達磨寺も松永によって焼かれたと伝えています。
当資源と関連する文献史料
 達磨寺所蔵「達磨寺略記」(江戸末~明治初頃)に松永久秀墓について記されています。『多聞院日記』天正5年(1577年)10月9日条に松永久秀が達磨寺を焼いているとの記述があります。
当資源と関連する伝承
 松永久秀の遺体を達磨寺に葬ったのは筒井氏であると「達磨寺略記」に記されています。
他地域の関連する歴史文化資源
 三郷町立野の五輪塔も松永久秀の供養塔であると伝えられています。
問い合わせ先
王寺町 地域整備部 地域交流課 文化資源活用係
電話番号
0745-72-6565

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見解・学説等の相違については、ご了承ください。