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大安寺旧境内附石橋瓦窯跡 だいあんじきゅうけいだいつけたりいじばしかわらがまあと

記入年月日 2023/07/07

復元整備した東塔基壇(南西から)
所在地
奈良市大安寺・東九条町、京都府綴喜郡井手町
区分
遺跡 | 社寺跡又は旧境内
指定内容
国指定史跡

※各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください。

歴史文化資源の概要
 文献史料に記載されている大安寺の始まりは、聖徳太子が建てた熊凝精舎であり、その後、「百済大寺」、「高市大寺」、「大官大寺」と、移転と改称を繰り返し、平城京遷都とともに「大安寺」となったとされます。奈良時代に造営された大安寺は、平城京の左京六条と七条の四坊に位置し、15町の広さを有する寺院です。伽藍の配置は大安寺式と称し、南大門・中門・金堂・講堂を南から北へ一直線に配置し、南大門の南に六条大路を挟んで東西両塔を配置しています。東西両塔は基壇がよく残っていることが早くから知られており、大正10年に塔跡が史跡に指定されました。昭和43年には寺地の四至がよく旧態をとどめていることから、旧境内全域が指定されています。平成18年には、大安寺の瓦を生産した「棚倉瓦屋」とみられる「石橋瓦窯跡」(京都府綴喜郡井手町)が追加指定となっています。史跡内には大安寺に池幷岳として取り込まれた杉山古墳やその前方部に築かれた杉山瓦窯跡群があります。
地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由
 史跡大安寺旧境内が所在する地域は、奈良時代は15町の広さを有する官の大寺でしたが、史跡指定時には敷地のほとんどが一般の宅地と田畑になっていました。現在は、奈良市が公有化を進め、整備による新たな価値の創出を目指していますが、地域にとって、かつて日本の首都であった奈良の都の官の大寺がこの地にあり、現在も境内の四至をよくとどめ、七重と伝わる東西の塔の基壇が残っていることは、地域の誇りであり、アイデンティティでもあると考えられます。
「記紀・万葉集」との関連とその概要
 大安寺の前身寺院については、文献史料によるところが多く、『日本書紀』には「百済大寺」、「高市大寺」、「大官大寺」の記載があります。
当資源と関連する歴史上の人物とその概要
奈良時代の大安寺の造営に大きな役割を果たしたのが、僧・道慈です。道慈は、遣唐使に従って入唐し、長安の西明寺に住し、三論の奥義を学びました。帰国後、西明寺を模して大安寺を造営し、三輪宗を広めたといわれています。また、光仁天皇の皇子で、桓武天皇の同母弟である早良親王が一時止住していたことも知られていますし、空海や最澄といった僧も修行や講義を行っています。
当資源と関連する文献史料
 古代の大安寺の歴史は、文献史料によるところが多く、記載のある史料は、『日本書紀』 『続日本紀』 『日本三代実録』などの『六国史』以外にも、『大安寺縁起』『扶桑略記』などがあります。最も重要な史料は、大安寺の縁起・資財を記した天平19年(747年)成立の『大安寺伽藍縁起幷流記資財帳』で、現存する『紙本墨書大安寺資財帳<天平十九年二月トアリ/>』(国立歴史民俗博物館蔵)は重要文化財に指定されています。
当資源と関連する伝承
『大安寺伽藍縁起幷流記資財帳』の冒頭には、大安寺の創始について、聖徳太子の建てた「熊凝寺」を後世に流伝し、という件がありますが、これについては、「熊凝寺」の実在自体が疑問視され、日本仏教興隆の祖とされる聖徳太子を創建者に仮託した伝承とみられています。大安寺の伽藍整備に尽力した僧・道慈が額田氏の出身であることから、「熊凝寺」を介して、その氏寺である額田寺と関連づけられたとみられています。また、平安時代初期に薬師寺の僧、景戎が著したとされる『日本霊異記』には大安寺の丈六仏がよく人の願いをかなえてくれる存在であること、大安寺が深く民衆とかかわっている寺院であることが記されています。
他地域の関連する歴史文化資源
大安寺の前身寺院とされる4寺院のうち、「熊凝寺」と関連する「額田寺」の跡地にあるのが、大和郡山市の額安寺で、江戸時代に建立された本堂は市指定文化財です。「百済大寺」は、発掘調査で伽藍の詳細が明らかになった桜井市の吉備池廃寺とみられ、国の史跡に指定されています。「高市大寺」は所在地にいくつかの候補がありますが定まっていません。明日香村、橿原市にまたがる「大官大寺跡」は発掘調査によって伽藍の様相が明らかになっており、国の史跡に指定されています。
問い合わせ先
奈良市教育委員会 教育部 文化財課
電話番号
0742-34-5369

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