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菅原東遺跡埴輪窯跡群(移設窯跡を含む) すがはらひがしいせきはにわかまあとぐん

記入年月日 2016/11/30

移築し露出展示している3号窯
所在地
奈良市横領町403番地の2ほか
区分
遺跡 | その他
指定内容
市指定史跡

※各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください。

歴史文化資源の概要
「菅原東遺跡埴輪窯跡群」は、平成2年度に発掘調査によって発見された古墳時代後期の埴輪生産遺跡で、6基の埴輪窯で構成されています。その歴史的価値の高さから平成12年に奈良市が史跡として指定しています。菅原東遺跡の丘陵は、丘陵全体が古墳時代前期の集落遺跡であり、丘陵両端を溝で区切って区画しており、さらに中央に溝で区切った方形区画を配しています。埴輪窯は、その丘陵端と区画溝を利用して築かれています。窯の天井部分は奈良時代に削り取られ残っていませんでしたが、窯の中に堆積している土の様子から、何度も床面をならして補修しながら、繰り返し使われていたことがわかります。窯の周囲に捨てられていた埴輪は、いずれも焼くのに失敗したもので、大部分は円筒埴輪ですが、馬、鳥、家、武器等を象った形象埴輪もあります。また、埴輪の胎土分析から、秋篠川を利用して、天理市域などの古墳に運ばれたと想定されています。
地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由
菅原東遺跡埴輪窯跡群の所在する地域は、古代より菅原邑と呼ばれ、野見宿禰を先祖とする土師氏の子孫が居住していました。天応元年(781年)、土師古人ら土師氏の一族15名が居住地の地名にちなんで菅原姓への改姓を願い出て許されています。菅原氏は、のちに道真をはじめ、学問(漢文学など)に長けた人物を多く輩出している家柄です。この地には、奈良時代以降にも活躍した菅原氏の根拠地であることを示す喜光寺(菅原寺)や菅原天満宮(菅原神社)が所在していますが、菅原東遺跡埴輪窯跡群は古墳時代に土師氏の職掌である埴輪づくりがこの地で行われた証拠であり、菅原という地域のアイデンティティを示す文化遺産です。
「記紀・万葉集」との関連とその概要
『日本書紀』垂仁32年7月6日条に、野見宿禰が皇后日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを進言したとあり、これを埴輪の起源とする説話があります。埴輪づくりは、野見宿禰を先祖とする土師氏の職掌のひとつとみなされており、菅原東遺跡埴輪窯跡群が土師氏の子孫が居住していた菅原邑にあることが、こうした説話が生じた背景にあると思われます。
当資源と関連する歴史上の人物とその概要
野見宿禰は、土師氏(のちの菅原氏)の先祖で、『日本書紀』によると、埴輪を立てることを進言したその功績により一族は土師氏を名乗り、葬送関係の諸事を司ったとされています。また、強力を誇る当麻蹶速(たいまのけはや)と力くらべ(相撲節会の初めとされる)をするために出雲国から召し出され、これに勝ち、力士の始祖とされています。
当資源と関連する文献史料
『続日本紀』によると、天応元年(781年)、土師古人ら土師氏の一族15名が居住地である大和国添下郡菅原邑にちなんで菅原姓への改姓を願い出て許されています。
当資源と関連する伝承
『日本書紀』垂仁32年7月6日条には、皇后日葉酢媛命が亡くなった際、古墳に生きた人を埋める殉死を禁止していたため、群臣にその葬儀をいかにするかを相談したところ、野見宿禰が土部100人を出雲から呼び寄せ、人や馬など、いろんな形をした埴輪を造らせ、それを生きた人の代わりに埋めることを天皇に奏上し天皇はこれを非常に喜び、その功績を称えて「土師」の姓を野見宿禰に与えたとあります。
他地域の関連する歴史文化資源
菅原東遺跡埴輪窯跡群で焼かれた埴輪は、天理市星塚古墳群や岩室池古墳などに運ばれたと想定されています。
問い合わせ先
奈良市 教育委員会 文化財課
電話番号
0742-34-5369

掲載されております歴史文化資源の情報は、その歴史文化資源が地域にとって大切であると考えておられる市町村、所有者、地域の方々により作成いただいたものです。
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