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史跡 宇陀松山城跡  しせき うだまつやまじょうあと

記入年月日 2017/06/26

史跡宇陀松山城跡 航空写真
史跡宇陀松山城跡 天守郭
史跡宇陀松山城跡出土 酢漿草文鬼瓦
所在地
奈良県宇陀市大宇陀拾生・春日・岩清水
区分
遺跡 | 城跡
指定内容
国指定史跡

※各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください。

歴史文化資源の概要
宇陀松山城(秋山城)は、宇陀市大宇陀拾生・春日・岩清水の標高約473mの山頂に築かれています。 中世の大和、宇陀地域では、伊勢国司・北畠氏の影響のもと、秋山氏、澤氏、芳野氏が勢力をのばし、3氏は、宇陀を代表する勢力となりました。秋山氏は秋山城、澤氏は澤城、芳野氏は芳野城とそれぞれが山城をもち、その麓に居館を構えていました。秋山城からの眺望は良く、宇陀地域(宇陀市西部)を一望できる好位置にあります。秋山氏の宇陀地域での優位性は明らかです。 天正13年(1585年)、豊臣秀吉の弟、秀長が大和郡山に入部すると、豊臣家配下の大名である伊藤義之が城主となり、天正14年(1586年)には加藤光泰、天正16年(1588年)には羽田正親と、短期間に城主が入れ替わりました。 文禄元年(1592年)には多賀秀種の居城となりましたが、慶長5年(1600年)の「関ケ原の戦い」後、代わって福島高晴(孝晴=福島正則の弟)が宇陀へ入部しました。 福島高晴は、城を「松山城」と改名、さらに城の改修と城下町の整備を進めました。しかし、元和元年(1615年)に福島高晴が改易となり、城は破却されました。この城割り役を担ったのが小堀遠江守正一(遠州)と中坊左近秀政です。 宇陀松山城は、発掘調査によって織豊系城郭の特徴を極めて良好に残すことが明らかとなりました。本丸等の主要郭群を総石垣で、礎石建物群には大量の瓦が使用されていました。 文禄・慶長期の城郭構造がそのまま残されていることも判明し、平成18年(2006年)には国史跡に指定されました。 天守郭は東西40m、南北12~20mの規模があり、南・北辺の中央東寄りに張り出し部をもちます。天守郭上には、いわゆる「天守」に相当する多重の建造物が存在したと思われます。 天守郭周辺部や南西虎口部の隅櫓周辺の発掘調査において、酢漿草(かたばみ)文を表現する鬼瓦(家紋瓦)が出土しています。歴代城主のなかで酢漿草文を家紋とするのは、多賀秀種です。城の中枢である天守郭や大手にあたる南西虎口部で多賀氏の家紋瓦が出土したため、城下を含めた宇陀松山城全体の本格整備が多賀秀種によってはじめられた考えられています。 豊臣政権下における大和国支配を見たとき、本城の大和郡山城を中心に高取城と宇陀松山城を支城とする3城体制を意図しており、宇陀松山城は東国に対する最前線の城であったと考えられます。
地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由
宇陀松山城は、廃城後、「古城山(しろやま)」と呼ばれ、その時々の人々から生活の場として親しまれてきました。宇陀松山城跡の頂上からは市内全域を一望でき、逆にそれは市内のほとんどから宇陀松山城跡を望めることを意味します。人々は、廃城後もかつての政治の中心地であった「古城山」を宇陀のシンボルとして眺め、親しんできました。 城下町である松山地区は、近世から近代(江戸~大正)を通じ地域経済の中心として繁栄し、「松山千軒」・「宇陀千軒」とも称され、宇陀の中心を担ってきました。これも当地に城が築かれたこその結果であり、町と「古城山」とは、密接に関係してきました。 史跡指定後、公有地内の樹木を伐採したところ、城跡からの眺望が良くなり、地域のシンボルとして改めて親しまれています。
「記紀・万葉集」との関連とその概要
なし
当資源と関連する歴史上の人物とその概要
伊藤義之、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種、福島高晴(孝晴)、小堀遠江守正一(遠州)、中坊左近秀政
当資源と関連する文献史料
阿紀山城図、宇多城わりに付小堀正一書状(慶長元和年間)
当資源と関連する伝承
なし
他地域の関連する歴史文化資源
澤城跡、芳野城跡、大和郡山城跡、高取城跡
問い合わせ先
宇陀市教育委員会事務局 文化財課
電話番号
0745-82-3976

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見解・学説等の相違については、ご了承ください。