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伴林光平歌碑 ともばやしみつひらかひ

記入年月日 2018/01/01

駒塚古墳上にある伴林光平歌碑
所在地
奈良県生駒郡斑鳩町東福寺1丁目
区分
碑文・道標 | 歌碑
指定内容

※各歴史文化資源へのご訪問の際は公開日・公開時間・料金等を別途ご確認ください。

歴史文化資源の概要
駒塚古墳の墳丘上にあり、伴林光平の辞世の歌「君が代は 巌(いわお)とともに うごかねば くだけてかへれ 沖つ白浪」が刻まれています。 駒塚古墳は国道25号線の南側に所在する全長49m以上の前方後円墳で、「駒塚」の名称は、聖徳太子の愛馬の黒駒を葬ったという伝承に由来します。伴林光平は、文久3年(1863年)に天誅組に参加するまでの3年間、駒塚古墳に居住していました。
地域にとって大切な歴史文化資源である、その理由
伴林光平は幕末の志士であるとともに、『巡陵記事』など陵墓に関する著作を残しており、その中で藤ノ木古墳なども取り上げていることから、斑鳩地域の歴史を知る上で重要な人物であるためです。
当資源と関連する歴史上の人物とその概要
伴林光平〈文化10年(1813年)~元治元年(1864年)〉 河内国(かわちのくに)(大阪府)の寺に生まれ、16歳の時に上京して西本願寺で仏学を研修し、さらに、薬師寺や法隆寺で学びました。29歳で故郷の河内へ帰り、河内や大和の山陵(さんりょう)を調査し、「河内国陵墓図」を作成しました。文久元年(1861年)に大和へ移り、中宮寺の侍講として歌を教授し、その際、東福寺の駒塚(駒塚古墳)に居を定めました。文久3年(1863年)、門人の平岡鳩平(北畠治房)とともに天誅組に参加し、十津川郷民との折衝などで活躍しましたが、天誅組が幕府軍に攻められ壊滅すると、同志の今村文吾に2人の子の後事を託して駒塚に戻りました。その後捕えられ、同志18人とともに京都で処刑されました。
当資源と関連する文献史料
『南山踏雲録』(伴林光平)
問い合わせ先
斑鳩町文化財活用センター
電話番号
0745-70-1200

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