深める 奈良偉人伝

持統天皇

皇子の妃から皇后、そして天皇へ

持統天皇は即位前の名を鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)といい、父は大化の改新を実行した中大兄皇子です。13歳のときに大海人皇子(中大兄皇子の弟)の妃となり、壬申の乱(672年)を経て大海人皇子が即位すると(天武天皇)、その皇后に立てられました。天武天皇の崩御後しばらくして即位し、飛鳥浄御原令の実施徹底をはかり、藤原京を造営して新しい都としました。

運命のいたずら ― 陰の実力者から女帝に

686年に夫である天武天皇が崩御すると、鸕野讃良皇女は即位せずに政治を行い、いわば陰の実力者として手腕を振るいました(このような形態を「称制」といいます)。これは、子である草壁皇子に皇位を継承させるためであったといわれています。しかし、その草壁皇子は3年後に薨去。この時、皇子の子である軽皇子はまだ7歳です。そこで、690年、鸕野讃良皇女が即位して持統天皇となったのです。

夫の夢を実現 ― 藤原京の造営

天武天皇は藤原京の造営に情熱を注いでおり、予定地に巡行するなど精力的に活動していましたが、志半ばで崩御しました。持統天皇は、夫の遺志を継ぐ形で藤原京の造営を推進し、694年に見事完成させました。
この藤原京は、現在の奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあり、日本で初めて条坊制を敷くなど、首都機能を備えた本格的な都であったとされています。また、大和三山(香具山・耳成山・畝傍山)を取り込んだ設計は、天武天皇の発案によるものだとされています。大和三山のうち香具山については、持統天皇の有名な歌が残されています。
―― 春過ぎて夏来たるらし白栲の衣乾したり天の香具山    「万葉集」

我が国の呼び方が「日本」に決まる ― 政治の礎を確立

持統天皇は、律令を制定し、戸籍を整備し、本格的な都を造営するなど、我が国の政治の礎を築きました。特に、701年の大宝律令は、「律」(刑罰に関する規定)と「令」(行政組織や租税・労役に関する規定)が揃っている、我が国初の本格的な法典でした。また、律令の整備に合わせて、我が国の呼び方(国号)が「倭」から「日本」に決まりました。

持統上皇は702年に崩御し、翌年には天武天皇が埋葬されている檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)に追葬されました。この陵は、藤原京大極殿の真南に位置します。壬申の乱という未曾有の戦乱を乗り越え、のちに我が国の礎を築いた二人は、藤原京へとつながる飛鳥の地で、共に眠りについています。