深める 奈良偉人伝

天武天皇

古代奈良を駆けぬけた激動の生涯

天武天皇は即位前の名を大海人皇子(おおあまのみこ)といい、父は舒明天皇、母は皇極(斉明)天皇です。日本古代最大の戦乱である壬申の乱で大友皇子を破り、飛鳥浄御原宮で即位しました。即位後は、八色の姓の制定や国史の編纂などにより律令制を整備しました。

大化の改新の功労者、中大兄皇子の弟

大海人皇子の兄は、大化の改新を実行した中大兄皇子(なかのおおえのみこ)です。668年、中大兄皇子は即位して天智天皇となりましたが、兄弟による皇位継承がなされるならば、その後継者は弟である大海人皇子のはずでした。しかし、天智天皇は父子継承を目指し、長子である大友皇子に皇位を継承させる強い意向をもっていました。

「私は出家して吉野にこもります」― とっさの機転で身の危険を回避

671年、病床にある天智天皇は大海人皇子を呼び、「皇位を譲る」と伝えました。しかし、大海人皇子は「兄は自分を試しておられるのだ」と判断し、「私は、もともと病気がちで、とても国家を守ることはできません。出家して吉野にこもります」と答えました。返答いかんによっては、命を落とす危険もあったこの場面で、大海人皇子はとっさの機転で自らと家族の命を守ったのでした。
このような経緯で、大海人皇子は出家し、夫人である鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ、後の持統天皇)を伴い吉野宮に向かいました。皇子を見送った臣下の中には、「虎に翼をつけて放すようなものだ」と言う者もいたそうです。

ついに我慢の限界! ― 日本古代最大の戦乱、壬申の乱おこる

天智天皇の崩御後、大津京にある朝廷では兵力を整え、吉野への食料を運ぶ道を閉ざそうとする動きもみられました。朝廷のそのような仕打ちに、大海人皇子の我慢はついに限界に達しました。吉野を脱出し美濃を本拠として、朝廷と戦うことを決意したのです。
こうして672年、日本古代最大の戦乱である壬申の乱がおこりました。箸陵(奈良県桜井市・現在の箸墓古墳)周辺でも大規模な戦いが繰り広げられましたが、大海人皇子側が圧勝しました。大海人皇子側はつづく瀬田川の決戦にも勝利し、約1ヶ月で壬申の乱は終結しました。敗れた大友皇子は自害しました。

天武天皇として即位 ― 「天皇」という称号が用いられる

壬申の乱に勝利した大海人皇子は673年、飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となりました。この時初めて、これまでの「大王」(おおきみ)に代わって「天皇」という称号が用いられたとする歴史学説もあります。
天武天皇は、皇族や皇親が主導する政治体制の確立に努め、律令の制定に着手し、国史の編纂を命じるなど、国の礎を築く政治を行いました。

吉野郡吉野町にある宮滝遺跡は、大海人皇子が隠棲した吉野宮の有力な候補地です。この付近の吉野川は、両岸が屏風のように切り立った独特の景観を有しています。大海人皇子も目にしたであろうこの景観を眺めると、皇子がたどった激動の生涯に思いを馳せることができます。