東大寺の仁王門から南へ、飛火野を少し過ぎた西側に「頭塔」がある。東大寺の古い記録では、「神護景雲元年(じんごけいうん)(767)、実忠(じっちゅう)が新薬師寺西野に塔一基造立(ぞうりゅう)奉(たてまつ)る」とあり、これが「頭塔」に当たるといわれている。 さて、今回はこの「頭塔」にまつわる、実は、怖~いお話。
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昔、玄昉(げんぼう)というお坊さんがいた。 中国の唐で学問をおさめ、帰国後は僧侶の最高の位にもついた。 その玄昉と、同じく唐で学んだ吉備真備(きびのまきび)らを、新しく政権の座に就いた橘諸兄(たちばなのもろえ)が登用した。 ところで、橘諸兄の政敵、藤原一族の中の広嗣(ひろつぐ)という人。自分が遠く九州の大宰府へ左遷されたのは玄昉らのせいと、玄昉らを除く反乱を起こしたが、敗れて斬殺された。広嗣の恨みは深かった。 さてさて、そんな中、こんどは玄昉が、九州へ遣わされた。建設中の観世音寺完成のためだが、翌年、寺の完成後に当地で亡くなった。人々は乱暴者の広嗣の怨霊(おんりょう)のしわざと噂した。お話はこうだ。
広嗣の怨霊は、雷となり、観世音寺の落慶法要の日、導師(どうし)を勤めた生前の玄昉にとりついた。凄まじい雷鳴とともに黒雲の中に玄昉を掴み上げるや、奈良の都まで飛び、興福寺近くで投げ落とした。 体はバラバラになって飛び散り、頭、腕などが別々に落ちた。頭の落ちたところが、今の高畑町で、その頭を埋め、塔を建てて供養したのが「頭塔」だという。
その「頭塔」。階段状の土の塔は、かつて「謎のピラミッド」と話題になった。木々が茂った小山は近所の子どもたちの遊び場だったともいうが、今は復原整備され、見学デッキや解説板も設けられて多くの見学者を迎えている。
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