中将姫(ちゅうじょうひめ)伝説で有名な當麻の里。奈良盆地の西に連なる葛城山系の麓では、稲刈りも終わった晩秋の田園風景が広がる。 當麻寺への参道の中ほどに相撲館「けはや座」がある。 中に入れば、寄せ太鼓に相撲甚句(じんく)のBGMに迎えられる。本場所と同じ大きさの土俵があり、色鮮やかな幟(のぼり)が並ぶ。力水、塩、桝席も。もうすっかり力士気分だ。
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さて、さて。今回はその當麻蹶速のお話。蹶速は怪力の持ち主で、動物の角をへし折ったり、足で人を蹴り倒したり。日頃から「この世で自分と互角に力比べできる者はいない。もしいれば対戦したいものだ」と、豪語していた。 それを聞いた大和朝廷の初期の天皇である垂仁(すいにん)天皇は、家臣に「彼と力比べをする者はいないか」と問われた。「出雲に野見宿禰(のみのすくね)という者がいます」と答えると、「その者を呼べ」と仰せになった。 垂仁天皇七年七月七日が、対戦の日と決まった。天皇、家臣らが居並ぶ緊張の中で、蹶速と宿禰の相撲が始まった。 互いに足を上げて蹴り合った。長い戦いの末に、蹶速は腰、脇の骨を折られ、とうとう命を失った。 この時、勝った宿禰は、褒美として蹶速の所有していた領地を賜った。
この対戦が、日本の国技、相撲の起源とされ、天覧相撲の初めとされる。『日本書紀』にこの記述がみられ、その後も奈良時代の天平六年(七三四)七月七日、聖武天皇の前で相撲が行われた。もとは豊作祈願の意味ももつ相撲。諸国から力士が召し出されて相撲をとる「相撲節(すまひのせち)」と呼ばれる宮中行事が平安時代まで行われていたようだ。 秋深い當麻の里に、今も伸びやかな抑揚の相撲甚句が聞こえてくる。
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