はじめての万葉集


はじめての万葉集
験(しるし)なき 物を思(おも)はずは
一坏(ひとつき)の 濁(にご)れる酒を 飲むべくあるらし
大伴旅人(おおとものたびと)
巻三 三三八番歌
考えても仕方ない物思いをしないで、一杯の濁り酒を飲むのがよいらしい。
一杯の酒
 古代では、お酒は神や王への重要な捧げ物であり、王は臣下たちと酒宴を開いて打ち解け、よりよい政治を目指そうとしました。現在でも、神社にお酒を奉納したり、宴会にお酒が欠かせないのは、神と人、人と人との間を取り持つ魔法の水がお酒だと考えられたからでしょう。
 今回の歌はそれとは少し趣(おもむ)きが異なる、大伴旅人の「酒を讃(ほ)むるの歌十三首」の一首目です。大伴旅人はこの時、大宰帥(だざいのそち)(長官)として大宰府(今の福岡県)に赴任しています。その頃、旅人は中国文学を積極的に作品に取り入れた、新しい文学スタイルを作り出していきました。
 旅人はこの歌で、無駄な物思いをするくらいなら、一杯の酒を飲んでいる方が良いようだと言います。「酒を讃むるの歌」の他の歌では、利口ぶって酒を飲まない人の顔は猿に似ているとか、黙って品行方正(ひんこうほうせい)な振る舞いをしても、結局は酔って泣きごとを言うことには及ばないのだ、とも詠んでいます。旅人は決してひねくれた酒乱ではありません。形式ばかりを重んじる、真心の無い生き方よりも、酒を飲んで心のままに生きる生き方を理想とし、肯定しようとしたのです。
 旅人は中国文学に大変造形が深く、この「酒を讃むるの歌」は、社会の束縛を嫌って世俗を棄て、竹林の中で酒や琴に遊び、清談したという、中国の竹林(ちくりん)の七賢(しちけん)の故事を踏まえていると言われています。世間の常識や形式にとらわれることのない彼らの生き方は、旅人のみならず、当時の官人たちの憧れでもあったことでしょう。飲酒という行為をとおして、人間らしく生きることとは何かを真剣に捉えようとした、旅人の代表作の一つです。
(本文 万葉文化館 大谷 歩)
万葉ちゃんのつぶやき
日本酒
 日本酒は冬から春、夏から秋へと日本の四季の移ろいとともに生まれ育ち、“燗(かん)してよし、冷やしてよし”という世界でも珍しいお酒です。他の酒類と比較すると飲用温度に幅があり、5℃~55℃ぐらいまでと広範囲にわたっています。
 清酒発祥の地といわれる奈良には29の酒蔵があり、各地域でその土地ならではの気候風土、文化を生かした銘酒を育んでいます。
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