古代史上、最も有名な人物の一人である聖徳太子。『日本書紀』の薨去(こうきょ)の記事では、万民が親や子を失ったように泣き悲しみ、まるで月日が光を失い、天地が崩れたようだと伝えられています。聖徳太子がそのように民に慕われていたのは、その名が象徴するように、聖(ひじり)のような徳をもって人びとに接していたことによるのでしょう。今回の歌は、太子の聖たる由縁(ゆえん)を伝える、伝承歌と考えられている一首です。 この歌の題詞には、聖徳太子が竹原井(たかはらのい)(現在の大阪府柏原市高井田)に出かけた時に、龍田山で死人を見て悲しんで作った歌とあります。この歌に類似する歌と物語が、『日本書紀』にも記されています。『日本書紀』では、太子が片岡を遊行していた時に、道に倒れている飢人と出会います。太子は飢人に飲食と自らの衣を与えて、「しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こや)せる その旅人(たひと)あはれ……」と歌をうたいます。しかし飢人は死んでしまい、太子はひどく悲しんで手厚く埋葬しますが、後日その屍は消えて衣だけが残されていました。太子は、実はあの飢人が聖の化身であることを見抜いていたのです。『日本書紀』ではこの物語の最後に、聖は聖を知るというのは本当であり、人びとはいよいよ畏(かしこ)まったと伝えています。この太子と飢人にまつわる説話は、物語や歌を変化させながら、太子の伝記である『聖徳太子伝暦(しょうとくたいしでんりゃく)』や、仏教説話集の『日本霊異記(にほんりょういき)』や『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』にも収録されています。 古代では、旅の途中で行き倒れて命を落としてしまう人がいました。そのような死者に出会った時には、歌を詠んでその哀れな魂を鎮めるのが習わしだったようです。この作品も、死者の魂をなぐさめる歌を通して、聖徳太子伝承を抱えながら『万葉集』に収録された一首と思われます。 (本文 万葉文化館 大谷 歩)
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