この歌の作者である有間皇子は、孝徳天皇の子でした。孝徳天皇は大化元年(六四五)に即位しましたが、乙巳(いっし)の変の中心人物である中大兄(なかのおおえの)皇子の傀儡(かいらい)であったともいわれます。『日本書紀』には、白雉(はくち)四年(六五三)に中大兄皇子が難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)から飛鳥へ還ることを提案した際には、承諾しなかった孝徳天皇を残して皆が飛鳥へ移ったことが記されています。翌年、孝徳天皇は崩御しました。 有間皇子は、一部から次の天皇として望まれていたともいい、実権を握る中大兄皇子にとっては邪魔な存在であったとみられます。中大兄皇子を警戒した有間皇子は、「陽狂」つまり狂気をよそおったということです。その「陽狂」が牟婁温湯(むろのゆ)(和歌山県西牟婁郡白浜町)を訪れたことで完治したと報告したところ、既に即位していた斉明天皇も牟婁温湯へ行幸することとなりました。 天皇の留守の隙にと、有間皇子に謀反を唆(そそのか)したのが留守官であった蘇我赤兄(あかえ)です。斉明天皇四年(六五八)十一月三日に、重税を課し狂心渠(たぶれこころのみぞ)などの大規模な土木工事を相次いで行っていた天皇を批判して、挙兵を勧めました。しかし、謀反を決意したその日に有間皇子は謀反人として捕まります。陥(おとしい)れられたことを悟り、尋問の際には「天(あめ)と赤兄と知らむ。吾全(あれもは)ら解(し)らず」と答えたとあります。結局、有間皇子は護送中に藤白の坂(和歌山県海南市)で処刑されました。まだ十九歳の若さでした。 この歌はそんな有間皇子が死を予感しながら詠んだ悲劇的な歌として、挽歌の冒頭に位置付けられています。本来は旅の無事を祈る内容であり、有間皇子に同情的な人々によって一種の歌物語が形成されていたのではないかとみられています。 (本文 万葉文化館 井上 さやか)
スマホアプリ「マチイロ」でも電子書籍版がご覧になれます。 詳しくはこちら
電子書籍ポータルサイト「奈良ebooks」でもご覧になれます。 詳しくはこちら