ある事柄を伝えようとする時、何を伝えたいのかによって情報は取捨されます。その結果、同じ事柄でも印象が一変することがあります。 この歌は、歌に付された注では、山上憶良(やまのうえのおくら)の『類聚歌林(るいじゅうかりん)』を引用しており、それによると近江遷都の際に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が三輪山を見た時の歌と解釈されます。この歌を中大兄の作とする説もありますが、中大兄は形式的作者、実作者が額田王という説もあります。近江遷都によって住み慣れた大和国を離れようという時に、大和国の人々にとって象徴的な山である三輪山への愛惜の念が歌われている印象的な歌です。 この歌の注には『日本書紀』も引用され、「六年丙寅(へいいん)春三月辛酉(しんゆう)の朔(ついたち)の己卯(きぼう)、都を近江に遷す」という記述が見られます。ところが、同書には『万葉集』に引用されない続きがあります。それによると、人々は中大兄が決定した近江遷都をよく思っておらず、遠回しに諌(いさ)める者や童謡(わざうた)(政治や社会を風刺する歌)も多くあり、さらには、日夜火災が発生したというのです。 この歌に注をつけた人物は、『日本書紀』の続きの文章を意図的に引用しなかったように思われます。もし引用したなら、大和国との別れを惜(お)しむこの歌が中大兄のことを「遠回しに諌める」歌のように受け取られかねません。それよりも『類聚歌林』を多く引用し、中大兄が三輪山を見た際の歌とすることで、中大兄自身も大和国を離れることに特別の思いを持っていたと感じられるような構成になっています。 『日本書紀』等の情報の取捨によって、『万葉集』の注は近江遷都の印象をガラリと変化させているように見えます。私たちの身近なことでも、情報の取捨に注意すると別のことが見えてくるのかもしれません。 (本文 万葉文化館 吉原 啓)
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