この歌は天武天皇が詠んだ歌で、『万葉集』には天武天皇八(六七九)年五月五日に吉野宮に行幸した際の歌だと記されています。 『日本書紀』によると、その年五月五日に吉野宮へ行幸したこと、翌六日に、草壁(くさかべ)皇子・大津(おおつ)皇子・高市(たけち)皇子・河島(かわしま)皇子・忍壁(おさかべ)皇子・芝基(しき)皇子の六皇子らと争いをせずお互いに助け合うと盟約したこと、が記されています。 このときの行幸先だった吉野とは、壬申(じんしん)の乱で大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)が兵を挙げた地でもありました。壬申の乱とは、天智天皇の息子の大友皇子と弟の大海人皇子との間に起こった皇位継承争いです。天智天皇が亡くなる前に、大海人皇子は皇位を継ぐ気は無いことを示すため出家して吉野に隠遁したといいます。それでも天智天皇亡き後に争いが起き、大海人皇子は吉野で挙兵、各地を転戦しながら味方を増やし、大友皇子側に勝利した、と乱の経緯がこと細かに『日本書紀』に記されていることでも知られます。 この歌はまるで早口言葉のようで、繰り返し声に出すと面白く感じますが、ふざけていたのではなく「よし」という言葉を重ねることに意味があったとみられます。 当時はひらがなやカタカナがない時代でしたので、元々は「淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三」と、外来の文字であった漢字で書かれ、六種類の「よし」が記されてもいます。歌を記したのが別人であった可能性はありますが、少なくとも「よし」の繰り返しには、自らの出発点となった吉野の地と自らの治世を言祝(ことほ)ぐ意図があったと考えられます。 壬申の乱を経た後だからこそ、息子たちを集めて吉野で盟約を結び、こうした歌を詠む必然性もあったといわれています。 (本文 万葉文化館 井上 さやか)
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