この歌は、有名な大和三山の歌への反歌です。「香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相争ひき(後略)」で始まる三山の歌では、神代に香具山・畝傍(火)山・耳成(梨)山が恋の争いをしたことがまず詠まれ、次いで、だから現実でも愛する者を争うのだ、と歌われます。作者は、『日本書紀』に数多くの記述がある中大兄皇子(後の天智天皇)です。 三山の歌をめぐっては、香具山が女性で畝傍山・耳成山を男性とする説、畝傍山が女性で香具山・耳成山を男性とする説など、さまざまな解釈がありますが、恋の争いに関する歌とする点では基本的に一致しています。また、中大兄が額田王(ぬかたのおおきみ)という女性を弟である大海人皇子と争ったことを踏まえての三山の歌だという見解もありましたが、現在では額田王を求めて兄弟で争ったという説そのものが疑問視されています。『万葉集』には、複数の男性が一人の女性を争う歌がいくつかあるため、そういった類型の歌であるようです。 さて、反歌のこの歌では、香具山と耳成山が争った際、何者かが印南国原(現在の兵庫県加古川市・明石市の一帯か)まで見に来たとあります。誰が見に来たのかが示されていませんが、『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』に記される伝承が関係するかもしれません。そこには、出雲の阿菩大神(あぼのおおかみ)が三山の争いを止めようと播磨国揖保郡上岡里(現在の兵庫県たつの市神岡町か)までやって来たところ、三山が争いをやめたと聞いたので、その地に鎮座したとあります。中大兄はこうした伝承を念頭に置いて、播磨国を旅する際などにこの歌を詠んだのではないかとも言われています。 この歌を中大兄が詠んだことが事実なら、奈良時代の風土記撰進の前に播磨国の伝承が王権に伝わっていたことになり、伝承の発生や伝播の過程に思いを巡らせたくなる興味深い歌群です。 (本文 万葉文化館 吉原 啓)
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