今回の歌の作者は、藤原鎌足です。鎌足はもと中臣鎌子(なかとみのかまこ)と称し、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)と共に蘇我(そが)氏を滅ぼし(乙巳(いっし)の変)、その後の一大政治改革(大化(たいか)の改新(かいしん))を成し遂げた人物です。天智八(六六九)年十月に病に倒れると、天智天皇は鎌足の邸宅に見舞いに訪れ、その数日後には大海人皇子(おおあまのみこ)(後の天武天皇)を遣わして、当時の人臣第一位の階位である「大織冠(たいしょくかん)」と「藤原」の姓を賜ったことが『日本書紀』にみえます。鎌足は藤原氏の祖とされ、彼の詳細な伝記は、藤原氏の家伝書である『藤氏家伝(とうしかでん)』にも記録されています。 この歌は、題詞に鎌足が采女(うねめ)の安見児と結婚した時に作った歌、と記されています。詠まれた時期は不明です。采女とは、天皇や皇后の身の回りの世話をした女性たちで、地方の氏族の若く美しい女性が選ばれました。時には天皇の子を身ごもることもあったため、天皇の許可なく采女と結婚することは固く禁じられていました。それゆえ、当時の男性たちの憧れの的(まと)であり、歌で「皆人の得難にすといふ」というように、容易にお近付きになれない存在でした。 おそらく、鎌足は天智天皇から采女の安見児を賜り、結婚することとなったのでしょう。みんなの憧れの存在をわが妻としたその喜びが、「安見児得たり」の繰り返しからあふれ出ているように思われます。その純粋な喜びを表現し、周囲の男たちに自慢する歌である一方、采女を下さった天智天皇に対する感謝と感激を大仰すぎるほどに表現してみせたともいえ、政治家・鎌足らしい一面も垣間見えます。 鎌足は、『藤氏家伝』によると「藤原之第」(藤原の邸宅)で生まれたとあり、この「藤原」は、現在の明日香村の「小原(おおはら)(大原)」が伝承地の一つといわれています。鎌足ゆかりの地を訪ねに、みなさんもぜひ明日香村にお出かけください。 (本文 万葉文化館 大谷 歩)
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