この歌は、天武天皇と額田王(ぬかたのおおきみ)の娘であった十市皇女(とおちのひめみこ)が亡くなった際に、異母兄の高市皇子が詠んだ三首の短歌のうちの一首です。 『日本書紀』巻第二十九によれば、天武天皇が神をまつるために行幸しようとしていた天武七(六七八)年四月七日の明け方、十市皇女が急病で亡くなったとあります。同月十四日には皇女を「赤穂」の地に葬ったとも記されていますが、それが現在のどこにあたるかは諸説があり、よくわかっていません。 天武天皇には十人の妻と十七人の皇子や皇女がいたということですが、格別の恩情をもって十市皇女の死を悼み、葬儀の際には泣き声をあげる儀礼をも行ったと記されています。そうした特別扱いには、壬申の乱が大きく関わっていたとみられています。 壬申の乱とは、天智天皇の没後の六七二年に、天皇の弟である大海人皇子(おおあまのみこ)(後の天武天皇)と、天皇の子である大友皇子(おおとものみこ)との間に起こった皇位継承争いです。十市皇女にとって、大海人皇子は実の父であり、大友皇子は夫でした。どちらが勝っても、皇女にとっては大切な人を失うことになります。極めて複雑な立場であり、つらい心境であったと想像されます。 勝利したのは、大海人皇子でした。その結果、夫だった大友皇子は自害し、自分は勝者の娘として生きながらえることになりました。六年後に彼女が急死した病名は、『日本書紀』にも一切触れられておらず、自殺の可能性も指摘されています。 高市皇子はそんな十市皇女の死を悼み、彼女を蘇らせたいと歌に詠みました。『万葉集』に残る高市皇子の歌はこの三首だけです。山吹の黄色い花が咲き乱れる山中の泉とは、死者の国とされた黄泉(よみ)を暗示しているともいわれています。 (本文 万葉文化館 井上さやか)
スマホアプリ「マチイロ」でも電子書籍版がご覧になれます。 詳しくはこちら
電子書籍ポータルサイト「奈良ebooks」でもご覧になれます。 詳しくはこちら