持統天皇三(六八九)年四月、天武天皇と皇后・持統天皇の子、草壁皇子が薨去(こうきょ)しました。『日本書紀』には「皇太子草壁皇子尊薨(ひつぎのみこくさかべのみこのみことかむさ)ります」という簡潔な一文で記録されています。草壁皇子は、壬申(じんしん)の乱以降の『日本書紀』の記述では「草壁皇子尊●」という尊称が用いられ、天武十(六八一)年二月には皇太子となります。『万葉集』では「日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)」と称されます。皇后の子であることから、格別の扱いを受けていたようです。 彼の死に関して、『万葉集』には柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の長歌作品(一六七~一六九番歌)と、草壁皇子の舎人(とねり)(天皇や皇族の護衛等を務める従者)たちがその死を悼んで作った二十三首の挽歌群が残されています。今回の歌は、舎人たちの挽歌群の一首です。 「島の宮」とは、草壁皇子の宮で、もとは「島の大臣(おおおみ)」とも呼ばれた蘇我馬子(そがのうまこ)の邸宅であったと考えられています。「島」とは、池の中に島を浮かべる庭園の様式で、当時まだ珍しい様式の庭園だったために、「島の宮」と呼ばれたのだと推測されます。明日香村の島庄(しまのしょう)遺跡は、馬子の邸宅及び「島の宮」があった場所ではないかと推定されています。 その「島の宮」の池では、鳥が飼われていたのでしょうか。この歌の作者は、主(あるじ)がいなくなっても、鳥たちよどうか野生化しないでほしい、と呼びかけています。それは、主を失った宮はいつか荒れてしまうという悲しい予感と、在りし日の主の姿が思い出せなくなってしまうことに対する嘆きであるといえます。草壁皇子の人物像を知り得る資料はごく限られていますが、このような歌をみると、庭の鳥を愛でる優しい人物だったのではないかと想像したくなります。 わが子を失った持統天皇は、明くる持統天皇四年正月、天皇として即位します。彼女の治世は、夫と息子の死を乗り越えた先から、スタートするのです。 (本文 万葉文化館 大谷 歩)
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