この歌は、持統四(六九〇)年の紀伊行幸の際に、川島皇子が詠んだ歌です。『日本書紀』(巻第三十)によれば、九月十三日に紀伊行幸に出発し、同月二十四日に帰京したと記されています。 紀伊行幸の途次で「浜松が枝」を詠むのは、有間皇子(ありまのみこ)の「磐代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結び真幸(まさき)くあらばまた還り見む」(巻二・一四一番歌)を意識していたと考えられます。 有間皇子は、謀反の罪に問われ斉明四(六五八)年に藤白(和歌山県海南市)で処刑された人物であり、この事件を題材とした歌は巻二・一四三~一四六番歌や巻九・一七一六番歌にもみえます。 有間皇子事件が起こった時、川島皇子はまだ生まれたばかりだったはずですが、大宝元(七〇一)年に詠まれた有間皇子関係歌(一四六番歌)もあるほどですから、当時の人々は若くして刑死した皇子に同情し、悲劇として語り継いでいたとみられます。 一方、この歌の作者である川島皇子は、朱鳥元(六八六)年に大津皇子(おおつのみこ)の謀反を密告したとされる人物です。 現存する最古の日本漢詩集『懐風藻』(七五一年成立)には、大津皇子と生涯裏切ることのない友情を約束しながら謀反の計画を密告した川島皇子への批判は多いが、むしろ忠臣として素晴らしい行いだ、ただ、なぜ親友を十分に諫(いさ)め教えなかったのか、と疑問を呈しつつ、穏やかで度量の広い人物であったとも記しています。 三四番歌の作者は川島皇子と記されているものの、山上憶良の作とも注記されています。事実、よく似た一七一六番歌は憶良の作です。憶良が川島皇子の思いを代弁して詠んだともいわれています。 二つの謀反事件と、それに関わらざるを得なかった人々の苦悩を彷彿させる歌だといえます。 (本文 万葉文化館 井上さやか)
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