『日本書紀』は、持統天皇が文武天皇に譲位するところで記述を終えます。今回ご紹介する歌は、即位前の文武天皇(軽皇子(かるのみこ))とその父である草壁皇子(くさかべのみこ)(日並皇子)に関わる歌です。 この歌は、持統朝に軽皇子が宇陀の阿騎野(あきの)で遊猟した際、柿本人麻呂が詠んだ歌の一首です。この時、既に草壁皇子は亡くなっていたようです。草壁皇子は、天武・持統天皇の子で、将来天皇になることが有力視されていましたが、即位することなく亡くなってしまいます。『万葉集』には、その死を悼(いた)む歌が数多く収録されており、彼の死が重大なこととして受け止められた様子が伝わってきます。 その歌の中には、草壁皇子の従者が、皇子に従って宇陀に行った際のことを詠んだと思われるものがあります(巻二・一九一番歌)。また、『日本書紀』天武九(六八〇)年三月には、天武天皇が「兎田(うだ)の吾城(あき)」(阿騎野か)に行幸したとあり、万葉歌に見える草壁皇子の宇陀行きも、この行幸に関係している可能性があります。このことを踏まえると、今回の歌は、軽皇子が亡父ゆかりの地を訪ねた際に詠まれたものだったと思われます。 さて、今回の歌と同じ歌群には、軽皇子に付き従った者たちが、阿騎野という思い出の地で草壁皇子を思うと眠れないという歌、さらに夜明けを詠んだとされる歌も詠まれており、その最後に今回の歌が詠まれます。天皇になるはずだった偉大な皇子が出猟しようとした時刻がやって来るというこの歌は、軽皇子の姿に草壁皇子の姿を投影しているのかもしれません。 父から子へ、周囲の人々が思いを託した軽皇子は、やがて大宝律令の施行など、重要な政策を実行した文武天皇として歴史に名を残すことになります。 (本文 万葉文化館 吉原 啓)
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