持統(じとう)天皇八(六九四)年十二月、日本初の本格的な都城・藤原宮への遷都が行われました。それまでは天皇一代ごとに宮を造るのが習わしでしたが、藤原宮からは恒常的に宮が置かれるようになります。藤原宮への遷都は、天武(てんむ)天皇の時代から構想された、持統天皇の悲願であったといわれています。 その藤原宮に関して、『万葉集』には二つの作品が残されています。一つは、「藤原宮の民(えのたみ)の作れる歌」(巻一・五〇番歌/作者未詳)という長歌で、藤原宮の造営に従事した民の立場で、宮の建設の様子と、新しい宮への讃美が詠まれています。もう一つは「藤原宮の御井(みゐ)の歌」(巻一・五二~五三番歌/作者未詳)で、藤原宮の聖なる井戸を讃美する内容です。今回の歌は、この「御井の歌」の短歌にあたります。 五二番歌(長歌)では、藤原宮は大和三山(香具山・畝傍山・耳成山)と、南は吉野山に囲まれたすばらしい場所に営まれた宮であること、そして「常(とこしへ)にあらめ 御井(みゐ)の清水(しみず)」と、井戸から永遠に清水が湧き出てほしいという願いが詠まれています。水は人間の生活には欠かせないため、井戸は神聖なものとされました。宮の重要な施設であったために、このような歌が詠まれたのでしょう。井戸で水汲みに奉仕するのは女性の役割で、彼女たちは聖なる存在とみなされたようです。この歌の「処女(をとめ)」たちが、藤原宮に仕えるために次々と生まれ続くというのは、御井の水が豊かに湧き出て、水汲みの聖女たちが絶えることなく奉仕するように、藤原宮が永遠に繁栄してほしいという、未来への祝福がこめられているのだといえます。 大きな讃美と祝福をもって造営されたと詠まれる藤原宮は、わずか十六年で平城京に遷都します。ただし、藤原宮の時代には大宝律令(たいほうりつりょう)が施行され、律令国家としての礎(いしずえ)が築かれた重要な時期であるといえます。 (本文 万葉文化館 大谷 歩)
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