この歌は、『万葉集』中で最長の歌である柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の高市皇子(たけちのみこ)挽歌(巻二・一九九)の反歌の一首です。一方で、『類聚歌林(るいじゅうかりん)』という歌集には「檜隈女王の泣沢神社を怨む歌」として掲載されているとの注も添えられています。つまり、『万葉集』が編纂(さん)された当時から作者は柿本人麻呂か檜前女王かの二説があったということになります。 『類聚歌林』とは、『万葉集』巻一・六番歌の注に山上憶良(やまのうえのおくら)が編集した歌集であったと記されており、ほかの箇所にも引用されていますが、現存しません。檜前女王は、この歌の作者としてのみ名前が伝わり、系譜や生没年などは一切不明です。 この歌の注ではさらに、高市皇子の死去に関する「日本紀」の記事を紹介しています。現行の『日本書紀』(巻第三十)によれば、持統十(六九六)年七月十日に「後皇子尊(のちのみこのみこと)薨(みまか)りましぬ」と記されており、『万葉集』の注と合致します。 天武天皇の最年長の皇子ではあっても母親が皇族ではなかったため皇嗣とはなり得なかった高市皇子を「後皇子尊」と称したのは、「皇太子」とされた草壁皇子(くさかべのみこ)亡き後にそれに次ぐ人物とみなされたことによるといわれています。 「高日知らしぬ」とは、天孫とされた天皇にこそふさわしい死の表現であり、太政大臣であった高市皇子にとっては破格の扱いといえます。 「泣沢の神社」とは、現在の橿原市木之本町の畝尾都多本(うねおつたもと)神社であり、祭神は伊邪那美命(いざなみのみこと)が火の神を産んで亡くなった際に伊邪那岐命(いざなきのみこと)が嘆き悲しみ流した涙に成った泣沢女神である、と『古事記』上巻に記されています。 この女神に祈れば命がよみがえると信じられていたようです。しかし、祈りもむなしく神となって天上世界へ去ってしまった、という嘆きがこの歌では表現されています。 (本文 万葉文化館 井上さやか)
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