舎人皇子(親王)は天武天皇の子で、『日本書紀』の最終的な編纂責任者と目されている人物です。 今から一三〇〇年前の養老四(七二〇)年五月二十一日、舎人親王が「日本紀」を修んだという記述が『続日本紀』(しょくにほんぎ)にあり、これが『日本書紀』が完成し奏上されたことを意味しているとされています。 さて、今回ご紹介する歌は、その舎人皇子が、立派な男子たる「ますらを」が片恋に悩んだりするものかと嘆きながら、それでもやはり「醜のますらを」は恋に苦しんでしまう、と歌ったものです。この歌には、舎人娘子(とねりをとめ)が応じた歌もあります(巻二・一一八)。 嘆きつつ 大夫(ますらをのこ)の 恋ふれこそ わが髪結(かみゆひ)の 漬ぢてぬれけれ (思わず嘆きながら「ますらを」たるものが恋してくださるからこそ、私の髪の結い糸も濡れて解けるのですね。) ここでは、立派な「ますらを」が恋してくれるからこそ、私の髪も濡れほどけてしまうのだと、皇子の少しおどけた嘆きを肯定的に捉え直し、機知に富んだ返しをしています。髪が濡れほどけることについては、恋されると髪がほどけるという俗信があったとも、相手の恋の嘆きが霧となって髪を濡らしほどけさせるという考えがあったともいわれます。 皇子と娘子が詠んだ「ますらを」、つまり古代の立派な男性像については、『日本書紀』にも見えます。神武天皇の兄である五瀬命(いつせのみこと)は、傷を負って亡くなる前に、「大丈夫」(ますらを)であるのに傷の報復もせずに死んでしまうとは、と発言しています。男とはこうあるものだ、といった男性像があったようです。 自らを「醜のますらを」とおどけた皇子は、この歌を詠んだ時にはまだ若かったと思われますが、後に『日本書紀』編纂を統括するという大きな業績を成し遂げた「ますらを」となるのです。 (本文 万葉文化館 吉原啓)
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