この歌は「背の山を越えし時に、阿閇皇女の作りませる御歌」と題された一首です。 「これやこの」は、これがあの有名な〇〇か、という意味の慣用句で、これまでは伝え聞いていただけで見たことがなかった光景や事象を目の当たりにした感動を表現するときに用いられます。 「背の山」とは、大和国から紀伊国へ行く道の途中にある背山(和歌山県伊都郡かつらぎ町)とされます。『日本書紀』巻第二十五に載る大化二(六四六)年の詔(みことのり)では畿内の南限とされており、畿外との境界のランドマークとして旅の歌などに詠み込まれました。畿内とは都とその周辺地域を指し、現代の「近畿」という言い方などにその名残がみられます。 「背」は「兄(せ)」の意味で、古代日本では夫や恋人など親しい男性へ呼びかける言葉として用いられました。対になる語は「妹(いも)」であり、親しい女性を指しました。『万葉集』には「妹背の山」(巻四・五四四番歌など)とも表現されており、背山の山頂が二峰あることに基づく呼び名であるとも、紀ノ川を挟んで向かい合う妹山(同町長者屋敷)と一対の表現であるともいわれています。 作者である阿閇皇女は、後の元明天皇です。この歌が詠まれた年月日は記されていませんが、直前の歌が持統天皇四(六九〇)年九月の紀伊行幸時の歌であることから、同じ行幸の際の歌であった可能性が指摘されています。 六九〇年の歌だとすれば、阿閇皇女は夫であった草壁皇子を前年に亡くしていたことになります。皇女はどんな気持ちで「背の山」を見たのでしょうか。そこには、有名な地名の現地を初めて訪れた感動や旅の道程への感慨だけではない、「背」という言葉に対する深い思いがあったことを想像させます。
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