吉野山の山おろしの風は寒いのに、「はたや今夜も」一人で寝ることか、と独り寝のわびしさを嘆いた歌です。 「はた」とは、あるいは、ひょっとして、という意味の言葉です。漢字本文では「為当」と表記されています。中国六朝以降の俗語的用法で、そうした知識を持っていた人が書き記したとみられます。 「山の嵐」は「山下風」と表記されており、峰から吹き降ろす山おろしであることが伝わります。 吉野山で過ごす夜の染み入るような寒さ、建物を揺らすように響く山おろしの音、そこで独り寝る様子が目に浮かぶようです。名歌として知られ、平安時代の『拾遺和歌集』(しゅういわかしゅう)や鎌倉時代の『新勅撰和歌集』(しんちょくせんわかしゅう)などにも採られています。 この歌は、「大行天皇」(さきのすめらみこと)の吉野行幸のときの歌だと『万葉集』に記されています。「大行天皇」とは、崩御したあと諡号(しごう)(おくりな)を贈られる前の天皇のことですが、『万葉集』では文武天皇に限って用いられています。文武天皇は持統天皇の孫にあたる人物で、六国史の二番目である『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、この天皇の即位記事から始まります。持統天皇は文武天皇に生前譲位し、史上初の「太上天皇」(おほきすめらみこと)となりました。 文武天皇五(七〇一)年三月二十一日、元号を建てて「大宝元年」とし、以降、現在の「令和」まで年号が途切れることなく続くこととなりました。また、初めての本格的な律令である大宝律令も、この年に成立しました。律令とは古代東アジアにみられる法体系で、文字によって記された体系的な法律でした。 文武天皇はわずか十五歳で即位し、慶雲四(七〇七)年に二十五歳で崩御しました。陵墓は明日香村の栗原塚穴古墳に治定されていますが、八角墳である中尾山古墳が現在は有力視されています。 (本文 万葉文化館 井上さやか)
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