この歌は、天平十八(七四六)年正月に白雪が降り積もり、左大臣であった橘諸兄が諸王や高官らを連れて元正太上天皇の御殿に参上して雪かきをしたときに詠んだ歌です。雪かきの後に太上天皇主催の宴が催され、「雪」をテーマにして歌を詠むように命じられたとあります。 当時、諸兄は六十三歳でした。この歌では、自らの白髪を目の前の雪の白さにたとえて、元正太上天皇を貴び敬う気持ちが表現されています。 同じ時に詠まれた葛井諸会(ふじいのもろあい)の歌に「新(あらた)しき年のはじめに豊(とよ)の年しるすとならし雪の降れるは」(三九二五番歌)とあるように、雪は豊作をもたらすと考えられていました。雪をめでたいものとする発想は『宋書』や『文選』の影響であったとみられます。 さらに、他にも歌が詠まれたがその場で書き残さなかったのでわからなくなってしまった、とも記されており、従三位であった藤原豊成(ふじわらのとよなり)や正四位上であった藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)、従五位下であった大伴家持(おおとものやかもち)など、同席した人々の名前が列挙されています。 現代では、家持が『万葉集』の編纂に関わっていたと考えられていますが、十一世紀の『栄花物語(えいがものがたり)』には、諸兄をはじめ諸卿大夫(しょきょうたいふ)が集まって編纂したとあります。諸卿大夫とは三位以上と四・五位の官吏を指し、雪かきに招集されていた人々をほうふつさせます。 雪かきをした七四六年頃、諸兄の権力はすでに衰えを見せていました。『続日本紀(しょくにほんぎ)』によれば、七五五年に不穏な振る舞いがあったと密告されて辞職し、七五七年に没しています。諸兄の子である橘奈良麻呂も、同年に謀反を密告され、獄中で亡くなったとみられますが記録すら残っていません。橘諸兄の没後、橘奈良麻呂の変を経て、藤原仲麻呂の専制体制が確立しました。 (本文 万葉文化館 井上さやか)
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