この歌は、天平宝字元(七五七)年十一月十八日、内裏(だいり)で行われた宴で藤原仲麻呂が奏上した歌です。仲麻呂は南家の祖・武智麻呂の第二子で、この時「紫微内相(しびないしょう)」として内外の兵事を掌っていました。 遡ること八年、七四九年に孝謙天皇が即位して光明皇后が皇太后になると、皇后の雑事を取り仕切っていた「皇后宮職(こうごうぐうしき)」が拡張して「紫微中台(しびちゅうだい)」という組織になりました。その長官である「紫微内相」に仲麻呂が就くと、左大臣だった橘諸兄(たちばなのもろえ)を凌ぐ力を持つようになりました。 諸兄の没後、天平宝字元(七五七)年六月に諸兄の子・奈良麻呂が仲麻呂の「田村宮」を囲もうとしますが、密告があり、未然に鎮圧されました(橘奈良麻呂の変)。仲麻呂は舎人皇子の第七皇子・大炊王(おおいおう)を私邸に住まわせ、皇太子として擁立したため、仲麻呂の田村第(たむらのてい)は「田村宮」とも呼ばれます。 さて、今回の歌には「狂業」という、穏やかではない言葉が入っています。「なせそ」の「な~そ」は禁止の用法なので、「たわけた事をするな」という意味になります。具体的には先の橘奈良麻呂の変を念頭に置いています。 『続日本紀(しょくにほんぎ)』同年七月二日条の宣命第十六詔には、「狂(たぶ)れ迷へる頑なる奴の心」「人の見咎むべき事わざなせそ」とあり、狂い迷う奈良麻呂らの心を悟して正そう、人が咎めるようなことをするな、という孝謙天皇のお言葉があります。今回の歌の表現はこの詔と類似します。また翌日、仲麻呂が光明皇太后の詔を伝えて宣(の)る、という文もあり、今回の歌も、まるで仲麻呂が天皇・皇太后であるかのような歌い方です。 この歌の前には「天地を 照らす日月の 極(きはみ)なく あるべきものを 何をか思はむ」(四四八六番歌)という皇太子・大炊王(のちの淳仁天皇)の歌があります。両者の歌から力強さの一方、動乱の時代を生きる不安な気持ちもうかがえます。 (本文 万葉文化館 阪口由佳)
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