この歌は「明日香清原宮天皇代」という標目の中の「天皇御製歌」と題された一首で、飛鳥浄御原宮で即位した天武天皇の歌であったことがわかります。 「み吉野」の「み」とは美称であり、良い野の意味を持つ「吉野」の地名をさらに讃えています。ほかには「み熊野」や「み越道」などの例があるだけで、いずれも特別な場所と認識されていた可能性があります。 「耳我の嶺」とは現在の金峯山のことかといわれますが、諸説あって明確にはわかっていません。歌の表現によれば、そこは雪が降りしきり間断なく雨が降るという場所であった、ということです。 万葉歌はすべて外来の文字であった漢字で書き記されており、この部分は「…時無曽 雪者落家留間無曽 雨者零計類…」とあって、明らかに「ける(家留/計類)」と記されています。降りしきる雪や雨を回想しているとみる説と、現在も体験中とみる説とがあり、そうした雪や雨のように絶え間なく物思いをしながらこの山道を辿って来た、と表現しています。雪や雨の中を進む困難な山道を表現することで、それほど難儀な物思いであったことも想像させます。 巻一・二六、巻十三・三二六〇、三二九三番歌として、よく似た歌が掲載されていることから、この歌が天武天皇の作歌ではなかった可能性も指摘されています。 ただ、後世に生きる我々は『日本書紀』によって、大海人皇子が皇位継承を辞退して追われるように吉野に隠棲(いんせい)したことや、そこから「壬申(じんしん)の乱」がはじまったことなどを読み知っています。当初は味方も少ない辛い道行だっただろう、これはその時の歌ではないか、と想像がつながっていきます。 そうした天武天皇物語とでもいうべきものが、『日本書紀』だけでなく、『万葉集』でも形成されていたとみられます。 (本文 万葉文化館 井上さやか)
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