2022年5月号
|
|
【第77話】
三才(さんさい)の森の豆タヌキ
文・山崎しげ子
奈良と大阪の県境、新緑の金剛葛城山系。その山麓に広がる葛󠄀城市は、古代、大豪族の葛城氏が栄えたところ。今回は、その葛城氏ゆかりの天皇陵の森に棲んでいた豆タヌキが、仲間と力を合わせて困っている人たちを救ったという心が温か~くなるお話。
北花内にある飯豊(いいとよ)天皇陵。「三才の森」と呼ばれ、タヌキの一家が棲んでいた。いたずらが大好きなゴン吉。木に登り、通行人に砂をかけたり、隣村のタヌキと喧嘩したり。
ある夜のこと、山のお寺のお坊さんが通りかかった。手には、油揚げと魚の包み。それをゴン吉はひったくって逃げた。
「こら、待て。何すんねん」
お坊さんはゴン吉の手を力いっぱい掴むと山の上の寺まで連れて行き、三日三晩、説教した。
さすがのゴン吉も「もう、いたずらは、決してしません」と謝った。
さて、夏も終わりの頃、大雨が降り、高野街道のそばの大川の橋が流された。さあ、大変。村人は困り果てた。そこで、ゴン吉は考えた。「木の橋やから流される。そうや、丈夫な石の橋を架けよう」。
隣の林堂(はやしどう)や屋敷山(やしきやま)の仲間にも声をかけ、皆で石を運び始めた。
よっこらせーの どっこいせ
大きな石も えんやこりゃ
重たい石も うんとこせ
こうしてできあがった石の太鼓橋は、「七橋」「行者橋」とも呼ばれ大雨でも流されることなく、今も大川に架かっている。
さて、タヌキ一家が棲んでいた飯豊天皇陵の森。天皇は五世紀後半に存在した女帝とされる。母が葛城氏の出身である。
平安後期以降、往来が盛んとなった高野街道。真言密教の聖地、高野山へ、京都、大阪からの参詣道として、また、のちには物資の交流の道としても賑わった。奈良からは竹内街道などを通り、橋本を経て高野山へ。道を東に辿れば、修験道の吉野大峰山へ続く。かつて、行者たちがこの「行者橋」を渡り大峰山に向った頃の活気がしのばれる。
飯豊天皇陵
飯豊天皇埴口丘陵(はにくちのおかのみささぎ)、北花内大塚古墳とも呼ばれる。全長約90メートルの前方後円墳で、周辺に濠を巡らせている。発掘調査では、人物や動物の形象埴輪や円筒埴輪のほか、木製品が出土している。
北花内という地名は、陵の名の一部にある「埴口」が「花口」さらに「花内」に転訛(てんか)したものと考えられている
七橋(行者橋)
高野街道に今も残る石橋で行者橋とも呼ばれる。
物語の場所を訪れよう
飯豊天皇陵(葛城市北花内)
七橋(葛城市葛木) へは
近鉄新庄駅より南西へ約1km
問
|
葛城市企画政策課 |
電話
|
0745-44-5016 |