秋といえば鹿が鳴く季節です。万葉集にも、秋の鹿を詠む歌が多くあります。ただ、この歌は「秋さらば」と仮定しており、秋ではない時期に秋の様子を詠むものです。「今も見るごと」は、鹿の屏風絵を見ているという説、見えるかのように想像しているという説があります。 題詞には「長皇子の志貴皇子(しきのみこ)と佐紀宮(さきのみや)に倶(とも)に宴(うたげ)せる歌」とあり、天武天皇の子・長皇子が、天智天皇の子・志貴皇子と共に平城京北側の佐紀宮で宴会をした際の歌です。他にも二人が同時に詠んだ作(巻一・六四、六五番歌)があり、親しい従兄弟同士だったようです。歌の中にある「高野原」は佐紀丘陵を指したものと思われます。 さて、この歌は巻一最後の歌で、題詞の前に「寧樂(なら)宮」という標目が書かれています。それまでの「〜宮御宇天皇代(みやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ)」という形式と異なることから、追加された部分ではないかと指摘されています。平城京遷都の七一〇年以降、二人が他界した七一五年以前の作だと考えられます。 さらに、この歌には「右の一首は長皇子」という左注があります。この一首が長皇子の作であることは題詞に明らかであり、不必要な左注であるように思われます。実は、いくつかの古い写本の目録には、この歌の次に「志貴皇子御歌」と書かれています。本来は志貴皇子の歌が続いていたと見てよいでしょう。 志貴皇子の歌はどこに消えてしまったのでしょうか。伊藤博(はく)氏は、長皇子の歌に続いて、志貴皇子の歌、「石(いは)ばしる垂水の上のさ蕨(わらび)の萌(も)え出づる春になりにけるかも」が収められていたと推測しています。それが春の代表歌として季節分類である巻八の巻頭(一四一八番歌)に載せられ、重なりに気づいた後の人が巻一の最後を削除した、という説です。秋と春を対で詠む、風流な宴だったのかもしれません。 (本文 万葉文化館 阪口由佳)
写真提供:梅原章一さん
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