この歌の題詞には、ある冬の雪の日、穂積皇子(大宝元年の令(りょう)制定以降は穂積親王と表記)が但馬皇女(たじまのひめみこ)(大宝元年以降は但馬内親王)の墓を遙かに望み、悲しんで涙を流しながら作った歌とあります。 穂積親王は天武天皇の六人目に生まれた皇子で、但馬内親王は彼の異母妹に当たります。当時、異母兄妹の男女交際は珍しいことではなく、両者がひそかに会っていたと記す題詞(巻二・一一六番歌)もあることから、二人は恋愛関係にあったと言われています。『続日本紀(しょくにほんぎ)』によれば但馬内親王は和銅元(七〇八)年六月に亡くなっており、この歌は同年の冬に詠まれたとみられます。 但馬内親王が葬られた地として歌われている吉隠は、桜井市東部に現在もその地名を残しています。『延喜式(えんぎしき)』諸陵寮式(しょりょうりょうしき)には、光仁(こうにん)天皇の母(紀橡姫(きのとちひめ))が吉隠陵に葬られたとあり、皇族や貴族の葬地であったことが知られます。吉隠は、初瀬川(大和川本流)の支流である吉隠川が形成した東西方向の谷沿いに広がる山あいの地で、峠を越えた東側の榛原を流れる宇陀川(木津川の支流)は淀川水系に属するため、大和川水系の東の端に位置することになります。また、吉隠には大和から伊勢に至る交通路(後の伊勢街道)が古くから通っており、大和から東国への出入口でもありました。そのため、吉隠の地名には東の果ての僻遠(へきえん)の地という印象が伴っていたものと考えられます。加えて、三輪山南麓から吉隠まで続く長い谷は、季節風に乗って西から東へ流れる雲の通り道となり、初瀬から吉隠あたりでは冬に雪が舞う景色がしばしば見られます。この歌には、こうした吉隠の土地の特徴が反映されていると言えます。 (本文 万葉文化館 竹内亮)
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