この歌は、天智(てんじ)天皇の皇子である河島(川島)皇子の挽歌として、柿本人麻呂が泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)に献上した歌とされます。 長歌(一九四番歌)では客観的な描写もうかがえますが、付随する歌として詠まれたこの短歌は、泊瀬部皇女の立場で詠まれています。「またも逢はめやも」とは、ふたたび逢うことを望んでもそれがかなわないことを強調した表現といえ、皇子の死を嘆く皇女の心情が伝わってくるようです。 河島皇子は、持統天皇五(六九一)年九月九日に没したと『日本書紀』に記されています。天武(てんむ)天皇八(六七九)年の吉野の盟約に参加し、天武天皇十(六八一)年には国史編纂(へんさん)の大事業を命じられるなど、天智天皇の皇子ではありましたが、「壬申の乱」(六七二年)後に活躍したことで知られます。天武天皇の皇女である泊瀬部皇女が妻であった故かともいわれます。 現存する最古の日本漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』(七五一年成立)によれば、大津皇子謀反(おおつのみこむほん)事件(六八六年)で親友を密告した人物とされています。河島皇子は、大津皇子と生涯裏切ることのない友情を約束しながら謀反の計画を密告した、河島皇子への批判は多いがむしろ忠臣として素晴らしい行いである、ただ、なぜ親友を十分に諫(いさ)め教えなかったのだろうか、と疑問が記されています。同書には、穏やかで度量の広い人物であったともあり、『日本書紀』には河島皇子が大津皇子を密告したとも、何らかの褒賞を得たとも記されていないことから、実際には謀反事件に関与していなかった可能性も指摘されています。 (本文 万葉文化館 井上さやか)
写真提供: 橿原市
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