2023年2月号
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(上)本薬師寺跡(南から撮影)
(下)藤原宮と本薬師寺(橿原市藤原京資料室模型)
本薬師寺の伽藍は中世以降に失われたとみられますが、金堂や東西両塔基壇は地元の方々により大切に守られてきました。
二の国家寺院
天武と持統の寺院
藤原京の時代、大官大寺(だいかんだいじ)を筆頭に飛鳥寺、川原寺、そして薬師寺の4つの寺が国家寺院(官寺)とされました。このうち飛鳥寺を除いた3寺は天皇発願の寺院でした。『日本書紀』によると、「薬師寺」と呼ばれる本薬師寺(もとやくしじ)は、680年に天武天皇が鸕野讃良(うののさらら)皇后(後の持統天皇)の病気回復を願って建立したとされます。686年、天武天皇が崩御した後も持統天皇により工事が進められました。『続日本紀』には698年に完成し、僧を住まわせたとあります。
藤原京では、朱雀大路を挟んで左京に大官大寺、右京に薬師寺が国家と都の鎮護を担う二大官寺として、計画的に配置されました。
平城京へ移る
710年の平城京遷都にあわせて、官寺である薬師寺も平城京へ移りました。現在の奈良市西ノ京町にある薬師寺です。移転後は平城京の薬師寺と区別するため、藤原京の寺院は本薬師寺と呼ばれるようになりました。現・薬師寺と本薬師寺の伽藍が同形・同規模であることから、かつては建物ごと移転したという説もありましたが、現在は本薬師寺西塔は奈良時代の完成であり、建物は残されていたという説が有力となっています。
平城京での移転先は左京の大安寺(大官大寺)、右京の薬師寺と、藤原京での位置関係を保っており、二つの国家寺院は藤原京から平城京へと継承されました。
東塔基壇上の礎石と心礎(東から撮影)
塔を支える心柱の礎石には柱孔、その内側に仏舎利(ぶっしゃり)(釈迦のお骨)を納める舎利孔がみえます。正面(西側)には畝傍山がみえます。
本薬師寺跡
橿原市
本薬師寺跡は近鉄畝傍御陵前駅から東へ500mほど直進した城殿(きどの)町の集落内にあります。金堂、東塔、西塔の基壇跡がよく残っています。
現在、医王院(いおういん)と呼ばれる寺院建物がある金堂跡には、礎石が当時の位置のまま残されています。また水田の中に土盛り状に残された東西両塔の基壇のうち、東塔基壇上には、塔の心礎(しんそ)と礎石が、西塔基壇上には心礎が残されています。
中門、金堂、講堂が南北直線に並び、金堂と中門の間に仏塔が東西に並ぶ双塔式の伽藍配置とその規模は、現・薬師寺にも受け継がれています。
本薬師寺跡 金堂基壇に残る礎石群
所 |
橿原市城殿町 |
アクセス
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近鉄畝傍御陵前駅下車 東へ500m
近鉄大和八木駅から奈良交通バス8・51・52・53系統「城殿口」下車
東へ450m
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